国際シンポジウム「溝口健二」

昨年5月に上梓された、溝口健二没後50年を記念して行われた国際シンポジウムをまとめたものです。
シンポジウムは2006年に催されたので、もう2年前になってしまいます。
同じ朝日選書から小津安二郎シンポジウムも出ています。
なかなか読めなかったのは、小津ほどには溝口に共感しにくいからでした。
というより、溝口は語りにくい印象があったのでした。
しばらく本棚の飾りになっていたのを、やっと最近手にしました。

読後、やはりわたしは溝口について語るには、作品を見ていないというどうしようもない結論。
まず「残菊物語」を見ていません。
この1939年の傑作といわれる作品に関する蓮実重彦の一文は、
(彼の文章の好き嫌いは別にして)それを見ていないことが、決定的な不足のように感じさせます。
「滝の白糸」「折鶴お千」も未見なので、えらそうに「溝口が好きです」という
資格はないのかもしれません。

それでもいくつかの作品から受けた印象で語ると
「小津は自分が撮るシステムを明らかにするけれど、溝口はそれを見せずに隠している」
というジャン・ドゥーシェの発言は、非常に共感できるものです。
このことばで、自分には小津の方が入りやすい理由がわかりました。
ただし、それは作品の難易を量るものではないでしょう。
東京物語」が愛されるのには、おそらく家族愛という文脈で語られるからだろうと
思いますが、実際のところは絶望に近い諦観で描かれています。
やはり簡単な作品ではないと思います。
溝口の作品は、ストーリーを追っていくと難解なことはなく、
どれも面白く見られます。
さいわいに「近松物語」は見ましたが、これもラストシーンの二人の
幸せそうな表情はとても印象的でした。
わたしが見た作品では「浪花悲歌」「歌麿をめぐる五人の女」も好きです。

何回か語られた田中絹代という女優について、わたしも彼女の良さがあまりわからず、
西鶴一代女」も、あまり好きではなかったのですが、
そう感じる人が結構いるらしいとわかりました。
ただし、シンポジウムでは結局田中絹代はすばらしい、と賛辞を送られています。
小津の「宗方姉妹」もヘンな映画ですが、あの田中絹代は変な感じにはまっていました。
西鶴・・・」の彼女は、はじめから堂上の姫に見えず、落ちぶれてからの方が合っています。
歌麿・・・」の彼女は悪くありませんでしたが・・・。
シンポジウムの前半で語られている手法も、「西鶴・・・」でよくわかります。

溝口の映画のラストシーンにも触れられていました。
最近見たせいもあると思いますが、「赤線最後の日」のラストシーン、
これはいうまでもなく、強烈な印象を残しました。

初期の「滝の白糸」などから始まって、肝心なことは女が言う、
という傾向は溝口の最後の作品にも貫かれていたようです。
つねに女性がひどい目に遭う、わたしから見ると実に理不尽に・・
しかし、意思をもって言わなくてはならないことを言うのは、女性の方です。
男は何人も出てきますが、まったくしょうがない人たちで・・・
またしょうがない男を描くと日本映画はだいたい上手なのです・・・
「赤線・・・」の男たちはそれなりによくしゃべり、
しかも残酷な発言をいくつか残します。
お母さんを「汚い!」と突き放す息子・・・
病気の自分を養う妻の仕事を「汚い仕事」という夫・・・
映画の充実度からいうと、「近松」の上を行くものではありませんが、
それでもすごい遺作だと思います。

いまさらながら気がつかされたのは、
楊貴妃」などのあまり評価の高くない作品もまた、彼の一部だということです。
溝口は多作な人で、タイトルだけでも不思議な作品が多くあります。
初期の傑作らしい「狂恋の女師匠」、「七面鳥の行方」!
それらを含めての彼を見たいと思いました。
あまりに巨匠のイメージが固まりすぎていますが、
実は何でも屋の映画屋さんだったようです。

このシンポジウムのある意味で最大の収穫は、
ビクトル・エリセの「人生を凌駕する映画」という発言、
そのエピソードを引き出したことかもしれません。
彼が兵役についていたころ、溝口の映画に出会い、
門限を気にしながら毎夜映画館に通ったこと、
山椒大夫」でとうとうラストまで見ると門限に間に合わなくなるので、
激しく葛藤しながら、ついに門限を破ったこと・・・
溝口へのすばらしいオマージュでした。

遺作といえば、フェリーニの「そして船は行く」は、世間の評価は
さほどではないようですが、わたしは大好きな作品です。
それについてはいつか・・・また。