秋の奈良探訪〜その1.薬師寺
京都都ホテルに泊まって、美味しい京都の朝ごはんを食してから、2日目は京都よりさらに古い都、奈良に向かいます。
近鉄京都線特急で西の京へ。
特急券が必要だけど、これだととても早く、京都から40分ほどで西の京に到着。
薬師寺、唐招提寺は修学旅行の定番で、行ったことのある人は多いと思う。
夫もわたしもン10年前に行った朧げな記憶があるだけで、再建された薬師寺の西塔も見たことがないので、訪ねることにしました。
交通至便、西ノ京の駅から歩けます。
勝手なイメージで、奈良っぽい景色。
まず薬師寺から。
薬師寺は天武天皇9年(680年)、天武天皇の発願により、飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、平城遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。ただし、飛鳥の薬師寺(本薬師寺、北緯34度29分33.88秒 東経135度48分0.95秒)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。
(wikiから借りました)
駅から行くと南門ではなく裏から入るようになります。
え?こんなにスッキリ綺麗だっけ?
というのが第一印象。
東塔と金堂しか覚えていなかったので、こんなに真新しい僧坊と大講堂に迎えられて驚きました。
大講堂には弥勒三尊像(奈良時代)、仏足石、仏足石歌碑(奈良時代、国宝)が祀られていて、はるか昔大学で仏足石歌碑に刻まれた万葉仮名を学んだことなど思い出して、懐かしく思いました。今でもちょっと読めた…
夫は脇侍の観音像が「腹筋すごくね?」と気になったようでしたが、腰の捻りならば金堂の菩薩さんもすごいわよ、ということで金堂へ。
ずっしり立派な金堂。
昭和51年の再建。
金堂には薬師三尊像が祀られています。
白鳳時代の美しい仏像が、今日まで消失せずに守られました。
彫りの深いお顔とか、腰を捻るポーズとか、本尊台座のギリシア、中東、インド、中国の影響を受けた紋様とかから、白鳳時代の大和がグローバルな文化を持っていたことがわかります。
朱の色も鮮やかに創建当時の姿が再現されているので、京都のお寺とは違う、若々しい鼓動を感じます。
昭和56年に再建された西塔。
白鵬時代から残る唯一の建物、東塔。
三重塔ですが裳階がリズムを作っていて、確かフェノロサが「凍れる音楽」と称賛したフォルム。
水煙も美しい。
東塔から西塔を臨む。
東院堂には聖観音菩薩立像が祀られていて、とても清新な美人?です。
白鳳時代でも薬師三尊像より、もう少し古いかもしれないように見えます。
1991年に建てられた玄奘三蔵院伽藍に寄りました。
ここの回廊でちゃんとチケットチェックがあります。
お商売ですなあ…
ここが実は拝観した時には知らなかったのだけどWikiによれば、結構びっくりな創建事情が。
- 玄奘塔 - 玄奘三蔵坐像と玄奘の頭部の遺骨であるご頂骨・真身舎利を祀る裳階付き八角円堂。このご頂骨は、太平洋戦争中の1942年(昭和17年)12月23日に中華民国の首都・南京で日本陸軍が土木作業中に偶然、かつて破壊された玄奘の墓を発見したことにより、中華民国と協議して1944年(昭和19年)にその遺骨の一部を日本仏教会に分けてもらった。戦後、さらに蒋介石からもその持ち出しの許諾を得ている。その後、ご頂骨は埼玉県岩槻市(現・さいたま市岩槻区)の慈恩寺に祀られていたが、1981年(昭和56年)に薬師寺に分骨された。扁額「不東」は高田好胤和上の筆。不東とはインドに着くまでは一歩も東(唐)に帰るまいという意味である。
- 大唐西域壁画殿 - 日本画家平山郁夫が30年をかけて制作した、縦2.2メートル、長さが49メートル(7場面、計13壁面の合計)からなる「大唐西域壁画」が祀られている。壁画は絵身舎利とされ、なかでも中央の3面は本尊・西方浄土須弥山となっている。扁額「大唐西域壁画殿」は平山郁夫の筆。
無理やり奪ったんじゃないでしょうね?とちょっと心配になるけど、こうやって堂々と祀られているのだから、中国と言っても当時の中華民国は納得したのでしょう。
(本当に玄奘さんの骨かもわかんないけど、と無信心者は思う)
西域といえば平山郁夫、という壁画が掲げられていますが、天井のラピスラズリを使った星宿の意匠は綺麗でした。
東大寺などもそうだけど西の京の大寺院も平地に立っているので、歩くのは楽です。
ここから唐招提寺に向かいます。