ポール・オースターの2作品

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やっちゃった~
例によって長々とした感想を書いて、あとちょっと・・・ってとこでDelete押して、
その後また何か触って・・・消えました。

体調くて頭痛いから、もうやめなくては・・・

そうそう、まずお断り。面白くないからスルーしてくだされ。

ポール・オースター、愛読者の多い作家です。わたしもいやがりながら、結局好きで読んでしまう。いやがりながら、というのは、彼の作品を読むと気持ちが塞がったり、いやあな気分になったり、いやあな予感に襲われたり、居心地悪い思いにさせられたり、およそポジティブな気分からは遠ざかってしまうのです。
「居心地悪い」というのがどの作品にもいえるでしょう。
長編の処女作にあたるらしい「孤独の発明」は、自伝的作品ですが、まずこれからして非常に衝撃的でした。
彼の作品の居心地の悪さは、ここにあるのかとわかります。

ニューヨーク三部作の最後になる「鍵のかかった部屋」、前2作は何年も前に読んだのであまり覚えていません。
でも彼の作品はどれでも、自己と他者との境界がわからなくなり、それでいごこち悪い感じがするのです。
また多くの主人公は、いわば低いところ、暗いところ、汚いところに行ってしまいます。いわゆる社会的な転落・・・とも表面上は見えますが、その部分は重要なものではまったくありません。彼らは自らの意志で・・・あるいは何か必然的に・・・低いところ、暗いところ、見えないところに行ってしまう。
かならずそれが、主人公と書き手との関係で語られます。書き手と彼はこの作品でも、自他の区別が意識の中であいまいになってきます。
語られるファンショーは、魅力的な人物ながらブキミでもあり、結局鍵のかかった部屋に閉じこもる。
最後には彼の作品だけが残ります。
あらゆる書物は孤独の象徴である・・・と「孤独の発明」の中でオースターは言います。

「最後の物たちの国で」は「鍵のかかった部屋」の後に書かれた作品だそうです。
これは珍しく女性が語り手で、彼女自身が例によって去って行き、低いところ暗いところ汚いところに行きます。それは、赤ん坊がもう何年も生まれない国、物が、食べ物がどんどんなくなり、それにともなって言葉も無くなっていく国。
これは黙示的な寓話です。
この作品の題辞に引用されたホーソーンの「天国行きの列車」はジョン・バニヤンの「天路歴程」のパロディだそうです。わたしはホーソーンは読んでいないけど「天路歴程」は読みました。なるほど、「最後の物たちの国で」はある意味巡礼物語と言えなくもありません。
この作品はアメリカではあまり評価されていないらしいですが、オースター自身は気に入っているそうで、わたしも好きです。
針の穴程度ですが、一条の光も見えますし、登場人物も性格が際だっていて面白く読めます。

これで和訳されたオースター作品は詩集と評論(これはわたしには難物)以外、ほとんど読んだことになります。
そのなかで印象強かったものは「偶然の音楽」・・・イヤな予感、居心地悪さはオースターの中でも一番。でも夫は「全然居心地悪くない」というから人それぞれ。
リヴァイアサン」「ミスター・ヴァーティゴ」は気軽に読めます。
それにしても、オースター作品に直接間接に引かれている米英文学にはわたしは疎すぎ、
またそれと劣らないくらい登場する大リーグ話も、わたしにはわかりません。

しかしこんなエントリーに来る人、いないだろうな~
でも「鍵のかかった部屋」93年初版で07年15刷!売れているんですよ。