「われらが歌う時」リチャード・パワーズ著 豊穣な音が文字になる

最近急速に読書力がフィジカル(視力)メンタル(気力)ともに低下して、まともな本がなかなか読めません。
それでもノロノロと、味スタにもフクアリにも持ち歩いてようやく読了したのがこれ。
 
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500ページほどの上下2巻。
なかなかの読み応えでした。その量というより、内容が。
これは第2次世界大戦前夜から1990年代初めまでのアメリカを舞台に、ジョナと語り手である弟ジョセフと、末っ子ルースの兄弟を中心に、その両親との2世代に亘って書かれた家族の物語です。
物語は二つの世代を行き来しながら、両親のさらに親の世代、またジョナたちの子どもの世代もきめ細かく描かれています。
そのサーガにはいつも音楽が流れる、というよりは息づいていて、この音を文字にするというパワーズの力量にも驚きます。
彼らの一家は類い希な音楽の才能に恵まれていて、物語で歌われる音楽は非常に多彩です。
おおむねいわゆるクラシック音楽ですが、ジョナたちが成長するに及んで、いわゆる現代音楽だったり、「同時代」のマイルスだったりコルトレーンだったりします。
文中にはその時代を表す言語としてビートルズビーチボーイズが埋め込まれ(そういえば、ドナルド・ダック・ダンが亡くなり、先日レヴォン・ヘルムも亡くなったと夫が研修先からメールしてきました)、同時に数多くのオペラ、リート、そしてバッハ、ジョスカン・デプレ、ゴシック、ルネッサンスポリフォニー・・・そして最後に歌ったのは・・・
 
音楽について詳しくはないのですが、ルネサンス頃のポリフォニーなどのコンサートには何回か行きました。グループ「アンサンブル・カペラ」のコンサートなどは、楽器としての声のすばらしさを堪能したものでした。
類い希な声を持つジョナがその歌手生命の最盛期をアカペラのグループで迎えたことは、よくわかります。
 
が、彼が最後に最も幸せに歌ったのは、また別のものでした。
 
それは、音楽以上にこの物語の重いテーマである人種格差問題につながります。
 
パワーズという人はいわゆる白人らしいですが、この物語の主人公ジョナたち兄弟は、亡命ユダヤ系ドイツ人男性とアメリカの黒人女性との間に生まれ、黒人として差別を受けながら、黒人社会にも同化できずに生きなくてはなりません。
この父親であるユダヤ系ドイツ人は物理学者で、彼は時間や宇宙空間にしか興味ないのか?という変わったヒト。彼が第2次世界大戦中にアメリカ在住のユダヤ系物理学者であり、ドイツ人であるということが、特に日本人であるわたしには胸を突くようなイヤな感じを抱かせます。禍々しいあることに彼が携わったのではないかという疑いから、妻の実家の父親も彼を拒絶し、黒人である妻はすべての社会に属せない存在になっていきます。
このジョナたちの母親である黒人ディーリアの孤独感孤立感は、ヒリヒリするような厳しさで迫ります。
末っ子のルース=ルツ。聖書の「ルツ記」にちなんだ名前ですが、この女の子を産むまでの経緯と名付ける時のディーリアの思いは悲痛で、わたしには非常な衝撃でした。
 
人種問題について新聞や何かの書物などで知ってはいます。
しかし、この物語を読むと、わたしの今までの知識はなきに等しかったのだと思い知らされます。
この小説の時代、白人男性と黒人女性の結婚がアメリカの州によってはそれだけで罪に問われる。色白に生まれたジョナと歩くとき、人目をはばかって、母親は召使いのふりをしなければならない・・・
母親ディーリアの受ける不当な差別の数々は、わたしの想像を絶したものでした。
 
その子どもである色の浅黒いギリシア人のような風貌のジョナですが、「一滴でも黒人の血が混じれば黒人」という規定?によって、様々な不利益を受けながら、両親には知的な教育を受けたので黒人社会とも乖離した存在になります。ただ、彼の性格でそのような社会性から無関心に自己中に生きていきます。
弟はジョナよりも色が黒く、ジョナの支えジョナの影、家族の支えとなり、妹は生まれた経緯が暗示するように「戦う黒人」になります。
 
しかし、パワーズはいわゆる「社会派」の作家のような声高な主義主張を述べることはなく、その時々のあるいはずっと愛していた音楽を基調としながら、一家の歴史を語ります。
物語の語り手は次男ですが、長男ジョナ、末っ子ルース、父親デイヴィッド、母親ディーリアからその親兄弟、その子どもたちまでどの登場人物も個性豊かに書かれています。
物語の面白さと、人種格差というアメリカの病根の深さ(それはアメリカに限らずすべての人間のうちなる問題ですが)と、音楽と歌声の美しさと、生きる痛みと愛と、すべてがぎっしり詰まった1000ページでした。