松山旅行~内子町散策編

9月最後の日は、この内容じゃドローで仕方ない・・・という試合で終わりました。
翌10月1日。
台風は東の方に行ってしまい、薄曇りのお天気。
この日は一日観光に当てたので、フットボールの旅としては破格に余裕があります。
 
で、午前中に出かけたのは、内子町
不精者夫婦が出発日近くになってサクッと調べると、古い町並みがあるらしい、こりゃ(カターレ)富山の廻船問屋みたいなのが見られるかと興味を引かれました。さらに!前日行われた愛媛FCvsジェフの試合は、「内子町マッチデー」で、内子町民はチケット割引になっていたようです。残念ながらお天気が悪かったせいか、3000人も入りませんでしたが(愛媛県民様、もっとニンスタへ行こう!)。その中に内子町民が何人いたか?
 
ともかく、ほとんど予備知識もないまま、まずは松山駅へ。
JR予讃線に乗ります。
 
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同じレールに2つの電車。なんか不思議・・・鉄道マニアではないので、こういうのが珍しい・・・
わたしたちが乗ったのは、手前の「宇和海」という特急です。
愛媛には親切な人が多いらしく、松山駅で切符を買うのにマゴマゴしていたら、駅員さんが2人で往復乗るなら、回数券にすると安いですよ、教えてくれました。
 
 
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内子駅。
下車すると、特に何の変哲もない地方の駅前。
古い町並み「八日市・護国の町並み」目指してテクテク。まだ朝の9時半だから、観光客はおろか、地元の人もあまりいない・・・
 
まず古い町並みの手前にある「内子座」を訪ねます。
 
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大正5年、内子町の旦那衆が建てた歌舞伎劇場「株式会社内子座」を復元したもの。
 
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窓口で入場券を買おうとすると「内子町伝統文化施設セット券ならお得ですよ」と言われるので、何かよくわからないままセット券購入。
立派なパンフレットを頂きました。
 
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中に入ると、堂々たる歌舞伎座です。
 
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舞台に枡席。
ここで文楽は毎年公演されていて、歌舞伎は2年に一度ほど中村勘三郎座などの公演もあったそうですが、普段は中学の発表会などの催しに使われているそうです。
ここで合唱コンクール・・・なかなかステキですが、絶対しびれが切れる・・・
 
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暗くてよくわかりませんが、2階席にある昔の広告(再現したものでしょう)
 
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舞台下手から奈落へ行きます。
 
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奈落の底を歩くふうちゃん・・・
FC東京もジェフも奈落の底に落ちないようにしないと~などというおバカ夫婦。
奥に見える柱のようなものが、回り舞台を手動で回す装置。今はモーターで回ります。
 
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内子座の側面。
趣があります。内子座裏に当たるお菓子屋さんもおいしそうですが、お休みでした。
なんとこんなに立派な歌舞伎座があったとは、知りませんでした。内子町、恐るべし。
 
セット券3枚綴りになっている2つめ。
「商いと暮らしの博物館」に向かいます。
ここは、明治時代からの薬屋さん「佐野薬局」を町並み保存のため町が買い上げて、博物館にしたもの。
内部は、商家の家族、使用人などを模った人形によって当時の様子を再現しています。
 
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佐野薬局当主と、取引先商人の商談に加わる女主人ふうちゃん。
むむ。顔なしふうちゃんの参加で写真が台無し。
 
肝心の古い店舗の写真を撮らなかった・・・けど、まだ朝早かったせいか、係の人がバタバタしていて写し損ないました。
 
 
内子町のカフェ。古民家を利用しています。入りたかったけど、時間がありませんでした。
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「商いと暮らし博物館」を出て、だらだら坂を上がります。
 
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内子町には酢卵メーカーが何軒かありました。
郵便ポストくらいあるデカイ酢卵。あたりに酸とゆで卵のニオイがしていました。体にいいらしいですが、わたしはこのニオイ苦手でした・・・
 
 
酢卵屋さんを過ぎると、いかにも昔ながらの町並みになります。
 
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本芳我家の庭。
本というだけに、こちらが芳我家のご本家ですが、現在も芳我家の方が住んでいらっるので、公開されていません。重要文化財に住むって・・・どうかしら?
上芳我家のお蔵の屋根。瓦に帆掛け船の意匠。上芳我家の商標登録のような鶴の飾りもついています。
 
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しかし、いい加減なサポ夫婦、ここまで「このへん、芳我ってウチが多いね~何してる人たちだろうね~」などと無知をさらけ出していました。
 
その坂の上の方にお得なチケットの3枚目「木蝋資料館・上芳我邸」があります。
こちらは芳我家の分家の屋敷と作業場で、公開されています。
 
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この上芳我邸で、ようやく内子町の歴史と繁栄の理由がわかりました。
 
内子町は芳我家を中心とした木蝋の生産と輸出で、明治から大正初期まで大変に栄えた町だったそうです。
で、てっきりロウソクかと思っていたのですが、木蝋とは、ハゼの木の実を粉にして蒸して搾ったものを固めたもの、見た感じは石けんににています。化粧品(口紅とかポマード)や医薬品、鉛筆とかクレヨンの材料になります。
 
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母屋の天井裏。
立派な大黒柱が3階まで通っていました。
赤いのは、ベンガラ(岡山産)を塗っているため。天井が無いのは、建築中に上芳我家当主が病気に倒れ、工事が中断したまま木蝋産業が衰退してしまったからだとか。
 
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この敷地に住居の他、土蔵、炊事場、木蝋の作業場、蝋を蒸す釜場、蝋絞り小屋、物置、隠居のいる離れなどがあります。
 
 
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木蝋作りはとても過酷な労働だったようで、このような「はぜとり唄」が残っています。
資料館にはその様子がミニチュアの模型と人形で再現されています。
本家はもっとすごくて、作業場は今の内子中学校の校庭にあったそうです。
蝋だけではなくて、いろいろ搾り取って、たいそうな財産を築いたような・・・しかし、大正になって外国産の蝋にとって代わられ、内子町の木蝋産業は急速に衰えていったそうです。
 
 
内子町近代史を学んだところでお昼になりました。
 
 
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お昼は「りんすけ」というお店で「鯛飯」を。
1050円。
温かいご飯の上に鯛の切り身がたっぷり。切り身はタレに漬けてあって、味がついています。卵を混ぜて、一口二口食べたところで思い出してパチリ。
タレもついてきますが、わたしはかけないでも十分でした。付け合わせの鯛のアラと豆腐の煮物もおいしかった。
 
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「りんすけ」の入り口、奥にも料理屋さんがあります。
 
ここで内子町巡りは終わり。
時間があれば足を伸ばして石畳地区へ行きたかったのですが、午後は道後温泉へ行くので断念。
松山に来て道後温泉スルーはないでしょう・・・ということで、内子から松山に戻ります。