吉田秀和「セザンヌ物語」

今年の6月に新国立美術館で開催されていた「セザンヌ パリとプロヴァンス展」。
その記事は↓
 
まったくシロウトの脳天気ぶりで、いい加減なことを書いてしまったのですが・・・
 
同じ6月の1日、音楽評論家吉田秀和が98歳で亡くなり、日本から本物の知識人がどんどんいなくなる・・・と悲しく思ったものでした。
 
その吉田秀和の逝去に際して、多くの著書の中から展覧会に行ったばかりということもあって「セザンヌ物語」を読みました。
 
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まずは、「これ読んでからセザンヌ展行けばよかったな~」という感想。
同じ絵を見て、一見した感想ならば吉田秀和先生と不肖ワタクシ、そんなに違わないのです。
ブログでも書いたように、セザンヌの作品を見るとどこか落ち着かない、ヘン、と感じます。
で、ワタクシのような、お○゛カにかかると「突っ込みどころ満載~」とおもしろがるわけですが、そこは偉大な教養人吉田秀和、なぜそう見えるのか、なぜそう描くのかを徹底的に考察するのです。
実際に世界各地に所蔵されているセザンヌ作品を追い、多くのセザンヌに関する資料評論伝記をオリジナルの言語で読んで(「セザンヌ物語」には吉田自身が翻訳した資料などが多く載っている)調べた上で、また作品に戻って見つめて、緻密に構築されたセザンヌ論を展開しています。
そして音楽評論家の彼は、セザンヌの絵から音(ベートーベンの交響曲に喩えたり)を感じ取って表現しています。
 
下の文は、南仏エクスの風景画にミストラルの熱風を感じたことが書かれた後に続くもの。
 
「私は、また、別の風も経験した。同じジャ・ド・ブッファンでも、そこにある『ジャ・ド・ブッファンのマロニエと農地』を描いたものだ。
このまちのいたるところに見かけるマロニエの大木の濃密な葉の茂みを小刻みにふるわせながら、風が吹いてゆく。ここでは、例の細かくて短く、平行線をなして運ばれてゆく筆が、そのままで、吹く風を前にした木の葉の顫動、何十、いや何百、何千という葉ずれの音に変転していると行っていいだろう。
こうして表現の手段だったはずのものが、表現の対象、いや中身そのものに変質してゆき、それにつれて、セザンヌの芸術に対する内容と手段の不可分の関係が深まり、充実してゆく。」
 
この繊細で美しい描写、セザンヌも聞いたら喜ぶに違いありません。
 
最後の章は「水浴する女たち」に当てられています。
わたしには「水浴」シリーズが、セザンヌ作品の中でもっとも不可解、時に不愉快で、好きでなかったので、何枚か展覧会で見る機会があったけど、いつもスルーしていました。
吉田秀和も同じような印象を持ったそうですが、そこはそれ、スルーなどするはずはなく、絵の前に佇んで、なぜこんなにヘンテコな(むろん吉田先生は『ヘンテコ』なんて表現はしていません)絵を生涯に亘ってセザンヌは描いたか、を考えるわけです。
本当に興味深い観察考察ですが、ここにそれを詳述する気力はわたしにはなし。
 
だたこの98歳で逝かれた偉大な教養人を惜しむばかりです。