第4回徳島旅行~その3.板東そぞろ歩き、賀川豊彦記念館とドイツ館
霊山寺と大麻比古神社で思いの外時間がかかって、のどかな田園風景の中を早歩きすることになりました。
大麻比古神社を離れると、カメラを持った男性が一人前をあるくだけ、急に観光客の姿はなくなりました。
川の向こうに見えてきた、洋館がドイツ館、その手前にあるのが賀川豊彦記念館。
他にはなんにもない~
左の橋はドイツ兵が建設しためがね橋をかたどって作ったものだそうです。
板東谷川を渡って・・・
賀川豊彦記念館に着きました。
前を歩いていた男性はここはスルーしてドイツ館に直行。
わたしが入り口で声をかけると、受付の女性が館内のあちこちの照明をつけて回ります・・・
まあ節電だからね・・・でもよほど誰も来ないってことなんだろうな・・・
どうも忘れられてきているようで残念。
賀川 豊彦(かがわ とよひこ、旧字体:豐彥、1888年(明治21年)7月10日 - 1960年(昭和35年)4月23日)は、大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本農民組合創設者。「イエス団」創始者。キリスト教における博愛の精神を実践した「貧民街の聖者」として日本以上に世界的な知名度が高い。茅ヶ崎の平和学園の創始者である。
ボランティアということばを日本で最初に使い、ボランティア活動を始めた人でもあります。
幼児教育、学校教育、農民運動、童話、小説、評論など社会運動から著作まで幅広い活動で影響力をもった人でした。
彼の戦前の思想と行動には、ハンセン病患者に対すること、満州に関することなどで、誤りもありましたが、その誤りをもってすべてを否定するのはフェアでないし、功績をもって誤りを否定するのもフェアではないと思います。
しかし徐々に忘れられている人になっているようなので、やはり特に貧しい人たちに対する無私の援助や活動などは、記憶しておきたいとものです。
賀川豊彦の書。
「主よみもとに近づかん」という賛美歌の歌詞と十字架の絵が書いてあります。
賀川豊彦が使った机やオルガン、幼児教育用の野菜の模型など・・・
花壇と記念碑。
賀川豊彦の書から「愛は私の一切である」
四国八十八番札所の一番と二番のお寺のある鳴門市から、彼のようなクリスチャンの社会活動かが生まれたというのは、不思議な気がします。
わたしが見学している間も誰も来なかった・・・
賀川豊彦記念館HP↓
お礼を言って、ドイツ館へ。
途中に道の駅がありました。
この道の駅でドイツ軒のパンを購入。
たちまち食べちゃったので、「鳴門総合情報サイト」の写真を借りました。
大正時代にドイツの俘虜兵から教わったパンが起源になっているそうです。
まあ、この銅像が好みかどうかはおいといて。
ここがドイツ館。
HP↓
HPによると、
大正3年、第一次世界大戦に参戦した日本は、ドイツの租借地であった青島を攻撃し、約4,700人のドイツ兵を俘虜として日本各地の収容所に送りました。このうち四国の徳島、丸亀、松山にいた約1,000人が大正6(1917)年から同9(1920)年までのほぼ3年間を、鳴門市大麻町(当時、板野郡板東町)の板東俘虜収容所で過ごすことになりました。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/shiro.gifこの収容所では、松江豊寿所長をはじめとする管理スタッフが、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができました。彼らの活動は驚異的で、所内に80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室、公園、別荘群などの施設を造るほか、健康保険組合、郵便局などの互助的活動も行いました。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動では、ベートーヴェンの「交響曲第九番」の国内初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/shiro.gif所外においても、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く市民に紹介しています。その他、 牧畜、製パン、洋菓子http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/gazo/doitukan.jpg、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術をもたらし、なかには現在もそれが受け継がれているものもあります。これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域社会に受け入れられ、板東の町やその周辺では、地元の人々と日常的に交歓する風景が当たり前のようになりました。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/shiro.gifドイツ館は、このようなドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、昭和47(1972)年、元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設されましたが、築後20年をこえて施設の老朽化や収集資料の増加により手狭になってきました。そこで平成5(1993)年、東四国国体のメイン会場の1つが鳴門市となったことを記念して、新ドイツ館の建設が計画され、同年10月13日に現在の地に新築移転されました。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/shiro.gifこの収容所では、松江豊寿所長をはじめとする管理スタッフが、俘虜たちの人権を尊重し、できるかぎり自主的な運営をみとめたため、自由で快適な収容所生活を楽しむことができました。彼らの活動は驚異的で、所内に80軒余りの商店街、レストラン、印刷所、図書館、音楽堂、科学実験室、公園、別荘群などの施設を造るほか、健康保険組合、郵便局などの互助的活動も行いました。また、学習、講演、スポーツ、音楽、演劇など文化活動も盛んで、とりわけ音楽活動では、ベートーヴェンの「交響曲第九番」の国内初演をはじめ、複数のオーケストラや様々な楽団が100回を超える演奏活動を行いました。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/shiro.gif所外においても、俘虜製作展覧会や各地での演劇、演奏会活動など、ドイツ文化を広く市民に紹介しています。その他、 牧畜、製パン、洋菓子http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/gazo/doitukan.jpg、西洋野菜栽培、建築、スポーツなど様々な技術をもたらし、なかには現在もそれが受け継がれているものもあります。これらのイベントや技術指導によって、俘虜たちは地域社会に受け入れられ、板東の町やその周辺では、地元の人々と日常的に交歓する風景が当たり前のようになりました。
http://www.city.naruto.tokushima.jp/contents/germanhouse/shiro.gifドイツ館は、このようなドイツ兵俘虜と地域の人々との交流を顕彰するため、昭和47(1972)年、元俘虜たちから寄贈された資料を中心に建設されましたが、築後20年をこえて施設の老朽化や収集資料の増加により手狭になってきました。そこで平成5(1993)年、東四国国体のメイン会場の1つが鳴門市となったことを記念して、新ドイツ館の建設が計画され、同年10月13日に現在の地に新築移転されました。
全文借りてしまってすみません・・・
館内は、ドイツ俘虜たちの生活が再現されています。
ドイツ兵たちの様々な活動の中でわたしが注目したのは・・・
板東FC。
サッカー部ですわよ。
おそらく、日本初のブンデス系チーム?
これは賀川豊彦記念館の後ろに見える板東の鐘。
板東駅に戻ると・・・
着いたばかりの女子東京サポに出会い、しばらくおしゃべり。
ど~して点が取れないか、千真、もう何ヶ月得点してないよ、とか。
彼女は前日渦潮を見に行って、そこのボランティアの方に説明してもらったそうですが、ボランティアの方が言うには、遠征に来ても観光するサポと、さっさと帰るサポ、いろいろ特徴があるらしいとか。
東京サポは旺盛な好奇心を発揮して、観光とグルメに多少の経済効果をもたらしているかもしれません。
ちなみにジェフサポも渦潮にはおおぜい来ていました。
青赤のシュシュをした東京サポを分かれて、徳島に戻ったのでした。