福岡旅行~柳川散歩~白秋記念館と戸島さんち。
柳川町歩きの続きです。
4月23日、午前中は川下りを楽しんで、お昼には、柳川名物鰻の蒸籠蒸しを。

こちらも月曜日というのに行列ができていて、川下りで一緒だった台湾からの旅行客もこのお店に並んでいました。
観光案内所などには、なんと「うなぎめしマップ」が備えてあり、「全店制覇 柳川うなぎ道」とサブタイトルが。
興味ある人はこれ↓
全店制覇したら、じんましんが出そうだけど(げんに蘇我夫は、浜松で昼夜鰻を食い、発疹したことがある)。
その地図には24店のうなぎ屋が紹介され、ご丁寧に「あっさり」から「濃厚」まで、味グラフがついています。
それによると、うちが食べたお店のは、あっさりと濃厚の中間だそうですが、わたしはかなり濃厚な味と感じたので、「濃厚」といわれるお店はどれほどか・・・
蒸してあるので鰻は軟らかく、ご飯は真っ黒にタレで染まっています。甘辛い味で、多分好みは分かれるかもしれないけど、わたしはおいしく完食しました。
お腹がいっぱいになったところで、町歩き。
北原白秋の生家と記念館へ。

明治33年白秋16歳の時、大火で大部分焼失し、母屋だけが残り、昭和44年に復元されました。
1885年(明治18年)柳川藩御用達の海産物問屋を営む旧家(現・白秋生家)に生まれ、1904年(明治37年)に早稲田大学に入学。学業の傍ら詩作に励み、1909年(明治42年)処女詩集「邪宗門」を発表。2年後、詩集「思ひ出」を発表。名実ともに詩壇の第一人者となります。
その後も、「東京景物詩」「桐の花」などに代表される詩歌集、「とんぼの眼玉」、「赤い鳥」などの童謡集などさまざまな分野で次々と作品を発表。
「雨ふり」、「待ちぼうけ」、「からたちの花」・・・。
聴いたら誰もが知っている、今なお、語り継がれる作品を数多く残しています。
白秋の故郷柳川への思いは強く、20年ぶりに訪問した際には感激の涙を流し、
また晩年に発表した、故郷柳川を舞台にした写真集「水の構図」では「水郷柳河こそは我詩歌の母体である」と述べています。
1942年(昭和17年)11月2日死去。享年57歳でした。
その後も、「東京景物詩」「桐の花」などに代表される詩歌集、「とんぼの眼玉」、「赤い鳥」などの童謡集などさまざまな分野で次々と作品を発表。
「雨ふり」、「待ちぼうけ」、「からたちの花」・・・。
聴いたら誰もが知っている、今なお、語り継がれる作品を数多く残しています。
白秋の故郷柳川への思いは強く、20年ぶりに訪問した際には感激の涙を流し、
また晩年に発表した、故郷柳川を舞台にした写真集「水の構図」では「水郷柳河こそは我詩歌の母体である」と述べています。
1942年(昭和17年)11月2日死去。享年57歳でした。
(北原白秋記念館HPより)




白秋の勉強部屋だった離れ。
この奥に白秋記念館があります。撮影禁止です。
白秋28歳の処女歌集「桐の花」(大正2年1913年)
「Ⅰ春」の巻頭の歌
春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと 外(と) の 面(も) の草に日の入る夕
銀笛のごとも 哀(かな) しく 単調(ひとふし) に過ぎもゆきにし夢なりしかな
しみじみと物のあはれを知るほどの 少女(をとめ) となりし君とわかれぬ
白秋記念館↓
白秋記念館から、旧戸島家住宅へ。
途中、かわいいすずめの群れが。

(蘇我夫撮影)
戸島といえば、ついジェフ→町田→横浜FCの戸島章を思い出してしまうので、なれなれしく「戸島んち、行こう」などと言いながら向かいました。
むろん、戸島章選手とは関係なさそうで、もともとは柳川藩中老の吉田兼儔の隠居住宅として建てられた茅葺き2階建ての住宅で、その後藩主立花氏に献上され、明治になって戸島家の所有になったそうです。



庭が国の名勝に指定されています。
池の水は堀から引いたもの。
「渡らないで下さい」という立て札が残念~石伝いに渡るヤカラがいるんだろうな~


旧戸島家を出て、「日本の道百選」の道を歩きます。




(蘇我夫撮影)

このあたりが日本の道百選に選ばれているようです。


歩いて、舟でくぐった水門のところまで来ました。

駅に向かうところで、お菓子屋さんがあったので名物「越山餅」を買いました。
もう食べちゃったから写真もないけど、求肥の中に白餡が入った上品なお餅。
西鉄に乗って、博多へ。
帰りの車中も爆睡してたから、どんな景色だったかわかりません~