大阪旅行その1~堺市・百舌鳥古墳群~お墓はでっかけりゃいいってもんでも~
フットボールの旅、大阪編。
堺在住東京サポmathichenさんにちなんで、堺を歩くことにしました。
しょんぼりな試合の翌日・・・でも食欲が落ちることはなく、ホテルの朝食ビュッフェを食いまくって、出発が予定より遅れるという、いつものようにいい加減な旅。
自分が古墳のどのあたりにいるかわかります。
ここは、「くびれ」のあたり。
4世紀末から6世紀後半頃に作られた古墳群。
すべて保存され、古墳の周囲も公園として整備されていたらどんなに壮観だったか、と思いますが、高度成長期の日本人にそういう発想はなかったでしょう・・・
百舌鳥古墳群について詳しくは↓
「ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに」
の歌碑。
「も」の音に「裳」を「までに」に「萬代日」を当てているのが、万葉仮名ですね。
他にも
君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ
かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ
3首の歌碑があります。
どれも情の濃い良い歌だな~
夫である仁徳さんはびびっただろうけど。
仁徳天皇陵正面。
5世紀中頃の築造。周囲2.7㎞の世界最大級のお墓。
歩きながら、夫が言うには
「しかし、こう大きいと周りから見るとただの小高い丘にしか見えないね。形なんかわかんないよ」
確かに周囲の堀の幅が広くなっているあたりが、くびれかな、と分かる程度。
あの教科書で見る鍵穴のような形は認識できません。
でも、古代のエライ人はどうしてこんな形にしようと思ったのでしょうね。
で、わたしは一望できる小型の円墳が好きです。
大仙古墳の陪塚になるのでしょうか、周囲にいくつも小さな古墳があります。
銅亀山古墳。
方墳らしいけど、児童公園の砂山みたい・・・
グワショウ坊古墳。
楳図かずおが名付けたみたい名称ですが、どういう意味でしょう?
これは円墳。
こんもりした森のようです。
七観音古墳。
5世紀頃の築造。
ブロッコリーのような円墳です。
右側のモニュメントのさらに右に「平和の塔」があります。
mathichenさん、遠足で来た以来とか、地元の人ってそんなものですね。
履中天皇陵正面。
・・・・・・・・・仁徳天皇陵と区別つかない・・・・・・
ここから、JR阪和線の反対川にも古墳群は広がっているのですが、午後は市街地に行きたいので、上野芝駅から電車に乗って堺東へ。
ここから方違神社へ。
「方違神社」ほうちがえじんじゃ、と読みます。
縁起によると
人皇10代崇神天皇5年、国内に疫病が流行し多くの民が死亡した。これを憂いた天皇は、同8年12月(紀元前90年)勅願により物部大母呂隅足尼(もののべのおおもろすみのすくね)を茅渟の石津原(当地)に遣わせ、須佐之男神を祀らせ給うた。すると疫病は途絶え五穀は豊穣となったといい、これが方違神社創祀の起源とされる。
ずいぶん古い歴史ある神社です~
方違神社の境内から田出井山古墳(反正天皇陵古墳)が見えます。
百舌鳥古墳群の北端に位置します。5世紀後半の築造。
50基ある百舌鳥古墳群のうち、ほんのいくつかしか見ていませんが、夫はもう古墳でお腹いっぱいになったようなので、堺の街で本物のランチをとることに。
しかし、こんなにいっぱいお墓があるなんて・・・古代の景色はどんなだったのかしら。
堺はこのお墓のおかげで観光資源もあり、緑も確保されているのだから、エライご先祖さんではありますね。