長崎旅行・番外編 長崎点描、そして「爆心地」を考える

試合に負けてしまったので、本当はシャクに触っているのですが、ここはひとつオトナとして、V.ファーレン長崎がJ2に昇格したので、長崎旅行ができたことに感謝します。
 
試合前に喫煙所で長崎サポのおじさまと夫が会話を交わしましたが、とても純朴な感じのサポで「こうしてJリーグに上がってこれて、こんな幸せなことはなかですよ」とシミジミいわれたのが忘れられません。
 
おかげさまで、今回の長崎旅行は(何度も言うけど試合以外は)とても楽しく、楽しいだけではなく奥深い経験を得ることができました。
 
もうくどいほどエントリーにしているのですが、語り尽くせなかった長崎のいくつかを。
 
 
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「ちゃんぽん」と「トルコライス」と「佐世保バーガー」が、ちゃんとメニューにあります。
しかしトルコライスって、一皿で一日分のカロリーが取れそう・・・クワバラクワバラ。
ホントは食べたかったけど~
 
うちはミニ卓袱で長崎を堪能しました。
うちの隣の席は少し後に入ってきた二人連れでしたが、わたしたちバカ夫婦は、この二人の会話に耳ダンボ。
どうも○崎大学医学部の先生らしき紳士と、若い美人インターンというお二人。
まずは村上春樹の新作と彼の作品の傾向について先生のひとくさり。
「おお、つかみはグーですな」とわたしたちコッソリ喜ぶ。←おバカ。
そして、なんと二人で豪勢にも本格卓袱を召し上がる。食べきれるのか?
あま~い豆の蜜煮を肴に先生はオンザロック。この豆の量もすごい。
他の先生のウワサやインターンの評判なども。
先生には21歳のお嬢様がいることなどインターンは聞き出す。
いよいよ佳境ってとこで、こっちはミニ卓袱なので、食べ終わってしまいました。
二人がこのあとどうなったか、お行儀よくタクシーでお宅まで送って「それではごきげんよう」と分かれたことと推察します←?
 
 
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これは眼鏡橋近辺をさるいていたときに撮った写真。
アーケードの前の顔・・・蘇我夫の弟そっくり!
ただ、それだけです。
 
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これは西坂公園にあったルイス・フロイスの石碑。
わたしはこのルイス・フロイスには学生時代ずいぶんお世話になりました。
戦国時代から江戸初期に来日したイエズス会の修道士たちが出版した「キリシタン版」という書物が、当時の日本語を知るのに非常に役に立ちます。
ルイス・フロイスの「日本史」もアルファベットで表記されているので、そこから1500年代にどんな日本語が使われていたかがわかります。
あまりお金儲けにはならないだろうけど、こういう研究も東西交流史と日本語変遷史として、非常に大切なものだと思います。
宣教師という人たちは、この時代もポルトガルやスペインの国益を担っていた部分もあり、功罪の罪の方を強調される傾向がありますが、こうした後世に続く功績も残しています。
 
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平和公園から浦上天主堂へ行く途中の道。
いろんなサントスを思い出します・・・
 
浦上天主堂から、原爆投下中心地、いわゆる「爆心地」へ行きました。
その写真は撮っていません。
今は「原爆投下中心碑」があり、被爆当時の地層が見えるようになっている以外は何もない公園のように見えます。
しばらくそこで「ここが原爆の投下された場所か、ここから熱線、放射線、爆風が吹き広がって、(現在の統計では)15万人に近い方を犠牲にしたのか・・・」などと思いを馳せました。
 
そこで考えたのですが、「爆心地」ということば、長崎のサポーターは本来の意味以外では使わないのではないかと思います。
わたしも以前から違和感があって、使いません。
ゴール裏のサポーターたちのことは、コアサポと呼んでいますが、確かにコアサポでは個人のような感じがして、あの熱心に応援している一群を面で捉える言い方としてはちょっと弱いかも。
「ゴール裏」で良いかと思うのですが、必ずしも彼らがゴール裏にいるとは限らないのが、ちょっと困る。長崎のスタジアムでもタスキとコールリーダーはバックスタンドでした。
わかりやすい言い方だからでしょう、東京でもジェフでも「爆心地」を普通に使っているサポが多くいます。
でも、この言葉の重さから考えると、使わない方が良いと思うのですが、どうかしら?