長崎旅行7. 平和公園と浦上天主堂

連日2万歩以上歩いて、健康には良いはずですが、なぜか半日はストレスのかかる時間を過ごす羽目に。まあアウェイだから・・・ということにしとこう。
長崎最終日。
お昼には空港に行くので、またさっさと起きて朝食ビュッフェで食べ過ぎ、初めて長崎に来たのだから、スルーはできないと決めていた平和公園へ。
 
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平和の泉。

原爆のため体内まで焼けただれた被爆者たちは「水を、水を」とうめき叫びながら死んでいきました。その痛ましい霊に水を捧げて、めい福を祈り、世界恒久平和核兵器廃絶の願いを込めて浄財を募り建設された円形の泉で、平和公園の一角、平和祈念像の前方にあります。直径18メートルで昭和44年に完成しました。
平和の鳩と鶴の羽根を象徴した噴水が舞い、正面には、被爆し、水を求めてさまよった少女の手記「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」が刻まれています。
 
 
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公園は修学旅行の中高生と、アジアからの団体観光客(たぶんタイ、フィリピンの方々。平和祈念館には中国からの旅行者が大勢。大陸の人が、台湾の人かはわかりませんでした)ばかり。
 
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坂を下って浦上天主堂へ。
 
 
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被爆した当時の写真が入ったモニュメント。
 
 
浦上天主堂の建設計画は、明治6年(1873)、キリシタン弾圧の禁制をとかれ自由を得た浦上の信徒達によって行なわれました。ところが資金がなかなか集まらず、20年余りの時を経た明治28年(1895)、やっとフレノ神父の設計による教会の建設が開始し、大正3年(1914)に東洋一のレンガ造りのロマネスク様式大聖堂として献堂式があげられました。
正面双塔にフランス製のアンジェラスの鐘が備えられましたが、昭和20年(1945)、原爆で建物は破壊され、アンジェラスの鐘も鐘楼とともに崩れ落ちました。現在の建物は昭和34年(1959)に鉄筋コンクリートで再建されたもので、昭和55年(1980)、レンガタイルで改装し、往時の姿に復元されました。周囲には被爆遺構の石像などが配され、今も原爆の爆風に耐えた一方のアンジェラスの鐘が時を告げています。
 
上の文も「ながさき旅ネット」からお借りしました。
月曜日でお休みだったため、中に入れなかったので、聖堂の写真もお借りしました。
 
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被爆した石像と、天主堂の塔と、平和を祈念する折り鶴。
 
浦上天主堂の庭には、キリシタン迫害に使われた漬け物石のような石など、キリシタン受難の歴史も残されていました。
 
浦上天主堂は迫害と原爆と2重の苦難を越えて、今日あるのですね。
多くの人の犠牲と祈りの上に、平和も自由もあるのだと改めて思います。
 
この後、「原爆資料館」と「原爆投下中心地」を巡りました。
原爆資料館」には、浦上天主堂から奇跡的に掘り出されたマリア像もありました。
いくつもの見るのも辛い展示がありますが、それが被爆の直前まで命があり、あるいは使われたりまとわれたりしていたという重さが、言いようもなく迫ってきます。
 
 
原爆資料館と爆心地の写真はあえて撮りませんでした。
やはり観光気分で見るものではないと思います。
犠牲になった15万人の命の重さを思うと、言葉もありません。
忘れないこと、語り継ぐことがとても大事だと思います。
 
のんきなおバカ夫婦のフットボールの旅も、平和でなければできないことですから。
 
 
そして、たっぷりさるきまわった長崎の旅は、空港で「五島うどん」を食べて、終わったのでした。