こんな時には家で映画でも〜「西遊記 はじまりのはじまり」

ほぼ毎晩映画を見るのはいいけど、レヴューが追いつかず、とうとう9本たまっちまいました。

 

全部書けないかもしれないから、一応ここに記録しましょ。

 

周星馳 「西遊記 はじまりのはじまり」

ヴェンダース 「アランフェスの麗しき日々」

山田洋次 「馬鹿が戦車でやって来る

ジョン・ウー 「クロッシング

シドニー・ルメット 「その土曜日 7時58分」

鈴木清順 「殺しの烙印」

キアロスタミ 「友だちの家はどこ」

マイケル・スピエリッグピーター・スピエリッグ 「プレディスティネーション」

川島雄三 「わが町」

 

ですわ〜(ヴェンダース以外全部初見)

書きやすいのとなんか書きにくいのとあるけど、この9本のなかで、一番アホらしいのは、これ。

西遊記 はじまりのはじまり」

ウダ〜っとポテチでも齧りながら見るのにはピッタリ。

ただし、かなりの頻度でキモチワルイシーンがあるから要注意です。

それに、あああの孫悟空のお話ね、じゃ子どもと一緒に、と思うのも大間違い。

教育上悪いお下品なシーンも多々あるから、ダメ〜

だって周星馳ですもの、そんな良い子な映画作るわけない。

 

2013年の公開だそうですが、わたしは初見。

2001年の「少林サッカー」、2004年の「カンフーハッスル」の後の作品。

西遊記」という動かし難い原作があるだけに、前2作ほど八方破れなお話ではないけど、それでも「ありえねー」のアホらしさは変わらず。

周監督というか、香港映画全体にも言えるのですが、人情話が絡まっても、香港の気候に反してとても乾いたコメディになります。

そこがわたしは好きなところで、あははは〜ありえね〜と笑い飛ばしておしまい。

特にもともと定番の「西遊記」ですから、前2作より安定感があり、意外性はないとも言えます。

 

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監督がドラゴンボールの大ファンだそうで、その影響も見えます。

 

これは三蔵法師になる前の若き日の玄奘が(ウエン・ジャン)、沙悟浄猪八戒孫悟空に出会って天竺へ旅立つまでのお話。

玄奘は、「妖怪ハンター」として妖怪に苦しめられている村人を救おうとするのだけど、全然呪力もなく、ライバルの段という女妖怪ハンターに助けてもらったりする。段を台湾の女優スー・チーがやっていて、周作品には珍しく変なメイクも変な服も着せられず、相当強いという以外は、美女のままです。

その代わり、脇役にヘンなメイクや、巨大な女や、オババの侍女集団みたいなのが出て、期待に応えてくれます。

猪八戒の出るところとか、非常にキモい場面も多いけど、まあ作り事ですから、ウへ〜と言って見てしまいます。

悟空もたいそうえげつなく、こんな奴が改心するのは、やはりお釈迦様のおかげだ、みたいな展開になります。

一番笑う場面は、猪八戒を誘き出すために段が女らしい誘惑の仕草を習得しようとするところで、ちょっとした行き違いから、大爆笑のシーンに。

こんなバカ笑いしたの、久しぶり。

 

それだけで、この映画の価値はあると思う。

 

主役のウェン・ジャンはこの後、かなりのスターになっているのですが、わたしは何かで見たかな〜というくらい。周星馳がもう少し若かったら玄奘をやったのではないかと思いますが、ウェン・ジャンも雰囲気は似ていると思いました。

 

 

この続編はツイ・ハークが撮ったそうで、これも見ていないので、Amazon  prime videoにあったら見たい。

 

 

 

こんな時は家で映画でも〜「マイ・ブックショップ」

ほとんど毎晩映画を見ていて、レビューが追いつかない…

そうこうするうちに、忘れてしまう〜

 

これはわりと新しい作品ですが、わたしは初見。

 

2017年、スペイン、ドイツ、イギリスの制作。

 

マイ・ブックショップ

イザベル・コイシェ監督。

他にもちょっと話題になった映画もあり聞いたことはあったけど、わたしはこの作品で初めて知りました。

カタルーニャ人だそうですが、映画はイギリスらしさ…と言っても行ったことないけどイメージとして…とてもイギリスらしいように感じました。

 

 

映画.comの解説では、

 

イギリスの文学賞ブッカー賞を受賞したペネロピ・フィッツジェラルドの小説を「死ぬまでにしたい10のこと」「しあわせへのまわり道」のイザベル・コイシェ監督が映画化。1959年イギリスのある海岸地方の町。書店が1軒もないこの町でフローレンスは戦争で亡くなった夫との夢だった書店を開業しようとする。しかし、保守的なこの町では女性の開業はまだ一般的ではなく、フローレンスの行動は住民たちに冷ややかに迎えられる。40年以上も自宅に引きこもり、ただ本を読むだけの毎日を過ごしていた老紳士と出会ったフローレンスは、老紳士に支えられ、書店を軌道に乗せる。そんな中、彼女をよく思わない地元の有力者夫人が書店をつぶそうと画策していた。フローレンス役を「メリー・ポピンズ リターンズ」のエミリー・モーティマーが演じるほか、「しあわせへのまわり道」のパトリシア・クラークソン、「ラブ・アクチュアリー」のビル・ナイらが顔をそろえる。

 

 

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端正な作品です。

フローレンスは戦死した夫とともに持ちたいと思っていた本屋を、海沿いの町の古い家で開店する。

「アートセンター」だか何かにするため(名誉欲のカタマリ)、その古い家を欲しがっていた地元の有力者ガマート夫人が有形無形に邪魔して、弟を使って法律まで作らせて、取り上げてしまう。

ほとんど孤立無縁に見えたフローレンスの唯一の理解者が、崖の上の屋敷に一人ですむ偏屈な老紳士。

彼とお互い好きな読書を通して、心を通わせます。

長年屋敷から出なかった老紳士は、ガマート夫人の卑怯な計略に腹を立てて、敢然とガマート家に乗り込み、彼女を厳しく非難する。

ここがこの映画で唯一と言っていい激しい場面で、何とその直後、老紳士は怒りのあまりか、心臓発作を起こして、亡くなってしまいます。

ただ一人の理解者を亡くしたフローレンスは、ガマート家の手先に過ぎない行政にも逆えず、その古い家をタダで没収されて、海辺の街を小舟で去って行きます。

 

と書くと、敗北感だけで終わってしまうようですが、最後にちょっとしたどんでん返しがあります。

 

脇役も丁寧に描かれていて、まず老紳士ブランディッシュビル・ナイが、ユーモアもあり、意志も強く、魅力的なキャラクターで、二人を繋ぐ本が、まずはレイ・ブラッドベリで、次はナボコフの「ロリータ」というのも、原作通りなのか知らないけど、面白い。

ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」が、作品の中で悲しみを誘うアイテムになっています。

フローレンスの本屋を手伝うクリスティーンという少女もまたたいそう魅力的で、わたし本は読まないわ、と宣言するのだけど、本屋の店員としては申し分のない働きで、賢く、聡く、活発で、素晴らしい巻き毛を持っています。

彼女が、鋭い目で、全てを見ていて、最後にやなヤツの権化みたいなガマート夫人に、いわばこっぴどく仕返しをします。

本は読まないわ、と宣言していたクリスティーンでしたが、フローレンスの勧めた本をちゃんと持ち出していて、そして映画の語り手は彼女であり、本を愛するフローレンスのスピリットは、クリスティーンに受け継がれていた、という結局はハッピーエンドでした。

それも、フローレンスという人の意思の強さや、地元有力者の前でもめげない勇気が、クリスティーンやブランディッシュを惹きつけたのでしょう。

 

他の脇役、BBCに務めるチャラ男(こいつが一番嫌い)とか、クリスティーンの母親とかもよく描けていると思います。

 

映像も悪くなく、灰色っぽい空に、海岸の景色、とても古くて立派なブランディッシュの屋敷、田舎の町の雰囲気などもよく伝わってきました。

 

ちなみに、1959年ごろの普通の女性のファッションとしてもなかなか素敵で、名流夫人を気取るガマート夫人は「ダウントン・アビー」みたいな格好ですが、フローレンスの服装は今着ても良いのじゃないかと思うような、カーディガンとブラウスとスカートで何気なくいい感じでした。

 

 

こんな時でも季節は進む〜東京都農林総合研究センターの花〜

2日間お籠り、3日目に散歩か買い物、という生活パターンになっています。

今日はお籠りの日。

昨日はいい天気だったので、また近所の東京都農林総合研究センターあたりへ散歩。

多摩川沿いのサイクリンクロードと遊歩道は、意外と人出があってちょっと「密」なので、この農業試験場と農林総合研究サンターあたりが良いのです。

 

もう桜は終わりですが、咲き始めが早かった割には今年は花期が長く、まだ咲いている木もあり、それにそろそろ初夏の花も咲き始めています。

 

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農業試験場のトチの木、もう直ぐ咲きそう。

 

 

垣根になっているシャクナゲの花はもう終わりですが、他の色のシャクナゲが咲いていました。

 

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白に中心が紫のは咲き始め。

 

 

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手前はシャクナゲ、後ろに里桜の普賢象。

 

 

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左は兼六園黄桜。

 

 

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左は名前わからない、右はアロニア・プレフォリア

 

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おおでまり、スノーフレーク

 

 

紫陽花みたいな咲き方。

 

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2週間前には黄金色の新芽だった黄金柏の木。

 

これだとJ1の黄色って色ではなく、普通の緑の葉に見えるけど、上の方はまだ黄色っぽい。

 

 

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ヒメウツギ。もうウツギが咲いている。

 

 

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中国青紫花躑躅。と書いてあった。

 

 

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ウンナンオガタマ。と、書いてあった。

 

 

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ヒメシャリンバイ。

 

シャリンバイは生垣などによく見られるし、祖母の家の庭にもあったけど、これは花がとてもきれい。

 

 

ここから残堀川に出て、多摩川まで行こうかと思ったけど、人が密になりそうだったので、帰りました。

 

当分こんな散歩できるだけマシ、という生活が続くのでしょうねえ…

こんな時は家で映画でも〜「女経」

 wow wowで録画したのと、Amazon prime videoで、テキトーに選んでいるのとで、何だか種々雑多なフィルムが続いています。

西部劇と時代劇がないのは、夫はどちらも好きなのですが、わたしはあまり好きではなく、二人の好みが重なるものを選ぶと、こういう結果に。時代劇はものによっては好きなので、機会があれば…「幕末太陽伝」などは大変好きです(あまり時代劇らしくないか)。

 

さて、今回は大映

大映といえば、豪華女優陣。

「女経」(じょきょう)

1960年公開

 

増村保造市川崑吉村公三郎の3人によるオムニバス。

監督と出演者の組み合わせは、写真の通り。

 

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しかしまあ当時の大映はいい女優さんを、惜しみなく使えていたのね。

 

監督の名前を伏せて見ても、それぞれの作風が違って、すぐわかります。

 

上映の順番も写真の上から増村、市川、吉村。

 

増村は「耳を噛みたがる女」若尾文子川口浩で。

市川崑は「物を高く売りつける女」山本富士子船越英二で。

吉村は「恋を忘れていた女」京マチ子、ちょい役ながら中村鴈治郎根上淳で。

 

 

3人の中で、わたしは増村が一番好きなのだけど、このオムニバスでは二本目の市川崑の作品のインパクトがすごい。

何しろ、山本富士子船越英二の組み合わせが、もうキモチワルイ。

 

と先走ったけど、まずは増村保造

1960年ごろは、まだ「ダルマ船」という船で生活する水上生活者があったらしい。その船のノンベエ親父の娘、若尾文子が、何としても貧乏暮らしから抜け出たくて、美貌を武器に、ナイトクラブの客を手玉にとってお金を稼ぎまくっていたけど、金持ちのボンボン川口浩に恋をして、結局きっぷの良さを見せ、別れて終わる。

増村らしいスピード感で、若尾文子のドライな美しさを際立たせています。

こういう役をやると、本当にうまいですね。

「赤線地帯」で既に凄腕の娼婦を演じていた若尾文子ですが、ここでも軽々と男を手玉にとって、最後は失恋なのかもしれないけど、めげることもなく前を向く。

 

二本目は前半は山本富士子船越英二の2人だけで進められ、冒頭から怪しさ満載。

後半山本富士子の正体が割れてからは、怪しさは無くなってしまいます。始めの方の山本富士子の気味悪さは、浅茅が宿か?と思うようで、行き詰まった小説家という役の船越英二も、その怪しさに幻惑されるのをたのしんでいるようです。山本富士子が頭から抜けるような声を出すのは、良家の未亡人を演じていたからだけど、すごくヘンだった…

山本富士子は、あまり好きではないのですが、市川崑も流石に綺麗に撮っていて、作品としてはこれが一番印象深いものでした。

 

最後の吉村公三郎のは、京マチ子の京言葉と着物姿が美しく、ちょい役の中村鴈治郎が面白い。すごいですな、あの人。

京マチ子は、修学旅行向きの宿屋とかバーとか経営してやり手の女将で、1960年代の修学旅行って、まだお米を持ってきたのか〜なんてこともわかる。

修学旅行生の事故と、昔の恋人(お金が全てになってしまった原因)との再会と別れを通して、恋をしていた頃の感情を取り戻した女将が、煩わしく思っていた怪我人の修学旅行生や、いけずをしていた義理の妹にも親切になる。

最後に四条大橋の欄干にもたれて、髪を直す姿が綺麗です。

 

 

という、豪華な女優陣を堪能する映画でした。

 

 

 

こんな時は家で映画でも〜「ミスター・ロンリー」

こんな時は史上、最高怪作、出ました〜

ミスター・ロンリー

ハーモニー・コリン監督、2007年制作。

 

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この写真から、もうヘンでしょ?

 

面倒いから、映画.comの解説をお借りします。

 

ガンモ」のハーモニー・コリン監督が8年ぶりにメガホンを取ったラブストーリー。主演に「天国の口、終りの楽園。」のディエゴ・ルナ、共演に「ギター弾きの恋」のサマンサ・モートンを迎え、他人を演じることでしか生きられない男女の恋と自分探しの旅を描く。マイケル・ジャクソンになりきって暮らしてきた男が、ある日マリリン・モンローとして生きる女に出会う。彼は彼女に導かれてモノマネ芸人たちが集団生活を送るスコットランドを訪れ……。

 

う〜ん、ラブストーリーとはちょっと違うと思うなあ。

まあ、所謂自分探しの旅、ではあるんでしょう。

ストーリーとしては、だいたい予想通りに展開します。

 

このハーモニー・コリンなる監督、なかなかに曲者です。

映画としては、かなり好みの分かれるものでしょう。

夫は結構気になる監督と思ったようで、この人の作品がもう一つAmazonプライム・ビデオにあるので、見たいらしい。

わたしは…何だかザワザワ感の残る映画で、好きとは言いにくいけど、嫌いでもない。

イヤに後味の残る作品です。

 

映画.comの解説にあるように、マイケル・ジャクソンになり切って、パリの大道芸で小金を稼いでいた「マイケル」が、そのパリの街で、マリリン・モンローになり切りの「マリリン」に出会い、誘われて彼女の夫が持つスコットランドの古城に行くと、そこには、彼女の夫「チャップリン」をはじめ、「ジェームズ・ディーン」「マドンナ」「リンカーン」「教皇(当時の多分ヨハネ・パウロ)」「エリザベス女王」、マリリンとチャップリンの子「シャーリー・テンプル」、なんか忘れたけど子役、「赤ずきんちゃん」に何とか兄弟の何とか、と、実に雑多なモノマネ芸人が共同生活をしていて、やがて小さな劇場でモノマネステージを大公開するべく鍛錬を重ねている。

モノマネ好きの桃源郷のようなところ…のようだけど、その実、矛盾、葛藤を抱えていて、うまくいかないことばかりに見える。

 

で、モノマネ芸人がいっぱい出るコメディだと思ったら大間違い。

むしろ、悲劇的な色が濃い。

 

そもそもこのモノマネ芸人、マイケルもマリリンも、みんな似ていない。マイケルはパリで大道芸をしていたけど、あのくらいのマイケル似なら、日本にもいくらでもいそうだし、マリリンも写真見ても分かる通り、似てません。

この映画では、おそらく似てる似てないはあまり問題ではない。

誰かになり切っている、ということがその人その人にとって意味を持つものだということでしょう。

「インパーソネーター」という呼び方には、「モノマネ芸人」とは違う深刻さを感じます。

作品からは、ある種グロテスクな印象も受けますが、ちょっとインパクトが足りず、もっとそこはやってもよかったかな、と思います。でも、そうなるとわたしの許容範囲を超えるかも。

 

この作品の不思議さは、モノマネ芸人のストーリーとは全く別に、重なることなく、進められるエピソードがあること。

それは、ニカラグアだったかの(忘れた)寒村で、子どもを教育したり物資をジャングルの村に投下したりと人道援助を行なっている尼僧たちと神父との、奇跡のストーリーです。

ヘリコプターから、ゆっくりと青い空の中を舞うように落ちていくシスターたちの姿は、この作品の中では美しいシーンでしょう。

この尼僧に起きた奇跡は、最後に彼女たちの命を奪うことになり、わたしのような視聴者が予想した通り、悲劇的な終焉を迎えるように見えます。

しかし、シスターたちの心のうちに入れば、喜びのうちに天国へ旅立ったように思います。それでも監督の意地悪さは、シスターたちの無残な姿をじっくり映すところで、このエピソードは辛いというか、いわば辛辣な終わり方をしてしまいます。

 

コリン(というと「ちゃん」をつけたくなる)監督が、なぜこのエピソードを入れたのか、それもスコットランドのインパーソネーターたちの話と並行するような長さで入れたのか。

いろいろに解釈できると思います。

シスターたちの死と並行して、マリリンの自死があるのは、当然作者がそれを意図したからでしょう。

マリリンの死の後、マイケルは「マイケルではない自分」として生きるべくパリで歩き始めます。

それもストーリーとしては予想通りなので、特に変わったお話ではないと言えなくもないのに、かなり変わった映画だという印象が残ります。

チャップリンが暴君でマリリンは幸福ではないことも描かれていて、この部分と、マリリンとマイケルの淡い恋と、坊やのアイドルのヘンな独り言とか、そういうところに彼らの「彼ら自身」の部分が表現され、彼らの生きにくさが見えるようです。

そういうところなのかな、そしてとっても素直に生きていたシスターたちとを並行して描きたかったのかな。

 

などと、つい考えてしまうので、映画研究会の批評会などに向いた映画かもしれません。

 

ちなみに、登場する俳優も曲者が多く、パリでマイケルの世話をやく友人がレオス・カラックス、シスターたちのリーダー的なやり手っぽい神父にヴェルナー・ヘルツォーク

久しぶりに彼らの姿を見ましたよ、と言っても13年前の姿だけど。

 

追記…mathichenさんのご指摘の通り、この映画には「エリザベス女王」として、アニタ・パレンバーグが出演しています。あんまりおばあさんだったので、「あの」アニタ・パレンバーグとは結びつかず、つい見過ごしてしまって、汗顔の至り。アニタは、この作品の10年後に亡くなっていました。これが、わたしの知る限りでは、最後の作品となるようです。

ちなみに、もう一人のスローンズの彼女、マリアンヌ・フェイスフルは、今月初めに新型コロナウィルスの感染症で、ロンドン市内の病院に入院したようです。無事だといいのですが、かなりの高齢ですから、どうなのでしょうか?

 

 

 

こんな時は家で映画でも〜「『僕の戦争』を探して」

どっか行きたいな〜

5月には山口へ行く予定だったけど、キャンセルしたし…

と、思っているからというわけではないけど、ロードムービーが続きます。

 

「僕の戦争」を探して

デヴィッド・トルエバ監督、2013年制作。

スペインの映画です。

 

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ポスター

 

原題はスペイン語

"Living Is Easy with Eyes Closed"

 

と見れば、ビートルズ好きならわかるでしょう。

この作品の最後に流れる“Strawrerry Fields Forever" の一節です。

写真の冴えない男が主人公で、ビートルズ大好きの英語教師、冒頭"Help!"の歌詞を生徒に1節づつ言わせています。

ビートルズ大ファンのアントニオ先生が主人公の割には、その曲は最後に流れる"Strawberry…“だけで、アントニオの憧れと、道中一緒になる若いベレンと父親に反抗して飛び出したティーンエイジャーのファンホの問題とが物語を作って行きます。

 

道中というのは、ジョン・レノンがスペインのアルメリアとかいうところで「僕の戦争」という映画を撮りに来ているので、その憧れのジョンに会いに行く、途中で訳ありのベレンとファンホを拾います。

ポスターの写真は映画の終わりの方で、ファンホの髪が短くなっているからわかる。

彼は、長い髪を切る切らないで父親と喧嘩して家出してきた。

ベレンは、望まない妊娠をして、密かに産んで赤ちゃんを人手に渡す施設に入れられるのだけど、そこの怪しげな施設長みたいなオバチャンから逃げてきた。

アントニオがとてもいい性格の人で、二人を…ファンホはどっちかっていうとストーンズキンクス、と失言したにも関わらず…受け入れて、旅を共にします。

スペインのことなどさっぱり知らないのだけど、この時代まだフランコ政権でビートルズもその警備に嫌悪感を持ったらしいとか。

他に知ってるってアンタ、久保タケちゃんがマヨルカにいるとか?

 

それはともかく、アルメリアというのも何もなさそうな、岩がゴツゴツしたサバンナのような土地のように見えます。

アントニオたちが滞在した海辺の土地の人はアメリカで言えば(古いけど)イージーライダーの南部人みたいな感じで、長髪のファンホをいじめる。

 

いろいろトラブルがあり、恋もあり、少年は成長し、というロードムービーの定番のエピソードを織り交ぜながら、アントニオはめでたくジョンに会うことができます。

そしてジョンに直接“Strawberry…“を歌ってもらい、テープももらう。

アントニオにはこの上なく満足なことだったのでしょう、彼の口から語られた限りは。

 

しかし、アントニオは迎えにきた父親と帰るファンホにそのテープをあげてしまいます。

迎えにきた親父が愛想の一つも言わず、世話になったその土地唯一のバー(ボロボロだけど)の主人にも礼を言うシーンもないのだけど、多分ファンホはうまくやっていくでしょう。

ベレンは、アントニオから結婚を申し込まれたのですが、それには答えず、ファンホに誘われてマドリードに行きます。そこなら子どもを産んでも噂にもならず、またファンホの父親の知り合いに散髪屋がいるので、美容師の勉強もできるだろうという身の振り方に。

ベレンは自立の道をいくでしょう。

最後にアントニオはファンホを殴った男にしっかり仕返しをして、ご機嫌な表情で帰ります。

 

監督も俳優も知らず、何となく見たのですが、なかなかの佳品でした。

映像もロードムービーらしい仕上がりです。

特にびっくりするような展開はなく、ウダ〜っと見るには悪くない作品です。

こんな時は家で映画でも〜「パリ、テキサス」

良い子で過ごしているので、外出は散歩かスーパーに買い物に行くくらい。

昨日散歩がてらにスーパーへ行ったら、ここはレジの列が、社会的距離を保つように赤いラインで立ち位置を示していて良いのだけど、それを全く無視して、ピッタリ後ろにくっつくヤカラがいる。

たいがいそれは、オヤジというか、オジジ。

そういうオジジに限って、マスクは朝並んでゲットするらしく(オババに買わせているかも)マスク装備で、社会的距離は無視。

何ともひどい自己中ではないかと思うのですが、怒ると免疫力ダウンしそうなので我慢…

 

そんなこんなの日々。

DAZNも解約しちゃったし、また映画でも見ましょう。

 

ヴイム・ヴェンダースパリ、テキサス

1984年、西ドイツフランスの合同制作ですが映画の舞台はアメリカ。

 

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ポスター

 

このナスターシャ・キンスキーの美しい背中越しの視線が、印象深いシーンです。

 

ヴィム・ヴェンダースの作品で見たいと思いながら未だ果たせずにいるのが「ゴールキーパーの不安」という初期作品。

ヴェンダースは好きな監督なので大概の作品は見ています。

この「パリ、テキサス」はヴェンダースロードムービー3部作の最後を飾り、彼の名を世界的に高からしめた作品。

本当に久しぶりに…またン10年ぶりかも…見ましたが、やはりこれがヴェンダースの最高傑作と言うべきなのだろうと思いました。

 

その後、リアルタイムで「ベルリン・天使の詩」「ファーラウェイ・ソークロース!」「東京画」などを続けて見て、当時は「ベルリン…」が大好きだったので、「パリ、テキサス」ファンが、特に「ファーラウェイ…」などを御大家主義などとボロカスに批判してたのを、そんなに腐さなくてもいいじゃんか、と思っていたものです。

これらの作品を今見たらどう思うかわかりませんが、ともかく。

 

改めて、「パリ、テキサス」のみずみずしさと、充実度を確認しました。

 

音楽はこの後しばしばヴェンダースと組むライ・クーダー

 

映画には、ファーストシーンが素晴らしいものがいくつもあるけど、これも冒頭のシーンにグイッと引き付ける力があります。

主人公トラヴィスハリー・ディーン・スタントン)が、テキサスの赤茶けた荒野に忽然と現れ、何分か測ってないけど、この人いつ口を聞くんだろう、と観客が不審に思うほどの時間を、黙りこくっています。

はじめの何分かはライ・クーダーのギターの音だけで、荒野に人間はトラヴィスしかいないから、喋る相手もいないけど、モノローグもなく、ただ、彼の心象風景とでもいうのか、荒れた大地に佇むだけ。赤い大地に抜けるような青空に、赤いキャップのジャコメッティの彫刻みたいな男。

その風体はくたびれ切ったジーンズにシャツ、汚れたキャップにやつれ落ち窪んだ目。

ハリー・ディーン・スタントンは、そういう役にぴったりなヒョロヒョロの体型。

 

やがて彼が何かの原因で放浪し、4年間彷徨い歩いた挙句、記憶も定かではないようになってしまったことがわかります。

弟が迎えに来て、彼の家に連れ帰られる長い旅の途中で、ようやく口を開く。

パリ、テキサス」と。

 

このタイトルも素晴らしいアイデアで、トラヴィスが語るように誰でも「フランスのパリとアメリカのテキサス」だと思ってしまうけど、実はアメリテキサス州にあるパリという小さな町で、トラヴィスが以前家族と住むつもりで買った土地があるという。

 

パリ、テキサスがこの作品の、主人公トラヴィスの渇望を表すキーワードなのですが、その土地にこの作品の登場人物の誰も、到達はしません。

おそらく、トラヴィスは最後にそこを目指しているのだろうと想像はできますが。

 

ラヴィスが、彼の妻と幼い息子を捨てて去ったことが、弟との会話でわかります。

弟夫婦は兄が残した幼い息子を、愛情込めて育てて、トラヴィスがいない間に8歳の愛くるしい少年になっていました。

弟夫婦はトラヴィス夫婦と違って、ごく常識的な堅実な人間で、物語の日常的で穏やかな一面を支えています。

ハンターというトラヴィスの息子を、弟夫婦は本当に愛しているのですが、トラヴィスの帰還により、失ってしまうという恐れも感じています。

 

ここで、この作品を久しぶりに見て、わたしの記憶力も全くいい加減なものだなあ、と思ったのは、この弟夫婦のことをすっかり忘れていたこと。

そもそもかなり損な役回りの彼らなのです。

分別があって善意の人、って、トラヴィスやその妻ジェーンのような欠点が目立つというか極端な行動をとる人より印象に残りにくいのかも。

 

そして、封切りから四半世紀ののち、うかつな視聴者であるわたしがようやく気がついたことは、これはわたしの家族にもいる社会福祉士の視点でも見られる映画なのだったのか〜と。

 

この作品で誰もがおそらく最も忘れがたい場面である、トラヴィスと妻との再会の場面。

それも何だかいかがわしい場所で…テレフォンなんとか、とかいうところなのでしょうか。

ラヴィスは安定した愛情で妻を愛することができず、DVに及んでいた、と告白します。

彼はジェーンを深く愛していたものの、二人の関係が齟齬をきたして、ジェーンを失ったショックのあまり彷徨い歩き、それでもジェーンを求めて彼女と住むはずのパリ、テキサスを目指していたようです。

ラヴィスと妻は直接顔を合わすことがなく、電話越しに語り合い、4年ぶりにおそらく理解しあえたように見えます。

そこで彼は自分の愛情の歪みに気づき、再び息子のハンターをジェーンに託して、去って行く。

 

と、いうようにわたしには見えました。

 

ジェーンと息子ハンターは4年ぶりにあって、固くハグします。

 

物語は再びどこかへ行くトラヴィスで終わる。

 

ジェーンは4年間金額はともかく、毎月ハリーの口座に送金していたけれど、彼女は怪しげな「接客業」でようやく稼いでいたように、あまり生活力があるとは見えない。

先々心配だなあ…

そこでわたしは、堅実な弟夫婦のことを思い出します。

ラヴィスの失踪していた4年という時間、弟との会話で、トラヴィスは「たった4年」といい、弟は(8歳のハリーにとっては)「人生の半分だよ」と言う。彼とハンターの過ごした時間と、彼がハンターを親のように理解していることが伝わってきました。

 

家庭支援センターの職員ならばどう言うか。

 

まあそんな作品に描かれていないことは置いといてもいいのですが。

 

ラヴィスの不器用で歪んだ愛情(その原因は父母にあるらしいこともトラヴィスが語る)、渇望のあまりに放浪し、その末に再会した妻に「独白」しているうちに、それに気がつき、今度は愛情の故に、再び別れる、という旅路の物語と言えるのでしょう。

 

ナスターシャ・キンスキーの美しさと、子役のハンターの天使のような愛らしさと、所々に登場するジョン・ルーリーのようなヴェンダースっぽい人たちとか、語りたいシーンの多い作品です。