こんな時は家で映画でも〜「パリ、テキサス」
良い子で過ごしているので、外出は散歩かスーパーに買い物に行くくらい。
昨日散歩がてらにスーパーへ行ったら、ここはレジの列が、社会的距離を保つように赤いラインで立ち位置を示していて良いのだけど、それを全く無視して、ピッタリ後ろにくっつくヤカラがいる。
たいがいそれは、オヤジというか、オジジ。
そういうオジジに限って、マスクは朝並んでゲットするらしく(オババに買わせているかも)マスク装備で、社会的距離は無視。
何ともひどい自己中ではないかと思うのですが、怒ると免疫力ダウンしそうなので我慢…
そんなこんなの日々。
DAZNも解約しちゃったし、また映画でも見ましょう。
ヴイム・ヴェンダース「パリ、テキサス」
1984年、西ドイツフランスの合同制作ですが映画の舞台はアメリカ。
このナスターシャ・キンスキーの美しい背中越しの視線が、印象深いシーンです。
ヴィム・ヴェンダースの作品で見たいと思いながら未だ果たせずにいるのが「ゴールキーパーの不安」という初期作品。
ヴェンダースは好きな監督なので大概の作品は見ています。
この「パリ、テキサス」はヴェンダースのロードムービー3部作の最後を飾り、彼の名を世界的に高からしめた作品。
本当に久しぶりに…またン10年ぶりかも…見ましたが、やはりこれがヴェンダースの最高傑作と言うべきなのだろうと思いました。
その後、リアルタイムで「ベルリン・天使の詩」「ファーラウェイ・ソークロース!」「東京画」などを続けて見て、当時は「ベルリン…」が大好きだったので、「パリ、テキサス」ファンが、特に「ファーラウェイ…」などを御大家主義などとボロカスに批判してたのを、そんなに腐さなくてもいいじゃんか、と思っていたものです。
これらの作品を今見たらどう思うかわかりませんが、ともかく。
改めて、「パリ、テキサス」のみずみずしさと、充実度を確認しました。
映画には、ファーストシーンが素晴らしいものがいくつもあるけど、これも冒頭のシーンにグイッと引き付ける力があります。
主人公トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)が、テキサスの赤茶けた荒野に忽然と現れ、何分か測ってないけど、この人いつ口を聞くんだろう、と観客が不審に思うほどの時間を、黙りこくっています。
はじめの何分かはライ・クーダーのギターの音だけで、荒野に人間はトラヴィスしかいないから、喋る相手もいないけど、モノローグもなく、ただ、彼の心象風景とでもいうのか、荒れた大地に佇むだけ。赤い大地に抜けるような青空に、赤いキャップのジャコメッティの彫刻みたいな男。
その風体はくたびれ切ったジーンズにシャツ、汚れたキャップにやつれ落ち窪んだ目。
ハリー・ディーン・スタントンは、そういう役にぴったりなヒョロヒョロの体型。
やがて彼が何かの原因で放浪し、4年間彷徨い歩いた挙句、記憶も定かではないようになってしまったことがわかります。
弟が迎えに来て、彼の家に連れ帰られる長い旅の途中で、ようやく口を開く。
「パリ、テキサス」と。
このタイトルも素晴らしいアイデアで、トラヴィスが語るように誰でも「フランスのパリとアメリカのテキサス」だと思ってしまうけど、実はアメリカテキサス州にあるパリという小さな町で、トラヴィスが以前家族と住むつもりで買った土地があるという。
パリ、テキサスがこの作品の、主人公トラヴィスの渇望を表すキーワードなのですが、その土地にこの作品の登場人物の誰も、到達はしません。
おそらく、トラヴィスは最後にそこを目指しているのだろうと想像はできますが。
トラヴィスが、彼の妻と幼い息子を捨てて去ったことが、弟との会話でわかります。
弟夫婦は兄が残した幼い息子を、愛情込めて育てて、トラヴィスがいない間に8歳の愛くるしい少年になっていました。
弟夫婦はトラヴィス夫婦と違って、ごく常識的な堅実な人間で、物語の日常的で穏やかな一面を支えています。
ハンターというトラヴィスの息子を、弟夫婦は本当に愛しているのですが、トラヴィスの帰還により、失ってしまうという恐れも感じています。
ここで、この作品を久しぶりに見て、わたしの記憶力も全くいい加減なものだなあ、と思ったのは、この弟夫婦のことをすっかり忘れていたこと。
そもそもかなり損な役回りの彼らなのです。
分別があって善意の人、って、トラヴィスやその妻ジェーンのような欠点が目立つというか極端な行動をとる人より印象に残りにくいのかも。
そして、封切りから四半世紀ののち、うかつな視聴者であるわたしがようやく気がついたことは、これはわたしの家族にもいる社会福祉士の視点でも見られる映画なのだったのか〜と。
この作品で誰もがおそらく最も忘れがたい場面である、トラヴィスと妻との再会の場面。
それも何だかいかがわしい場所で…テレフォンなんとか、とかいうところなのでしょうか。
トラヴィスは安定した愛情で妻を愛することができず、DVに及んでいた、と告白します。
彼はジェーンを深く愛していたものの、二人の関係が齟齬をきたして、ジェーンを失ったショックのあまり彷徨い歩き、それでもジェーンを求めて彼女と住むはずのパリ、テキサスを目指していたようです。
トラヴィスと妻は直接顔を合わすことがなく、電話越しに語り合い、4年ぶりにおそらく理解しあえたように見えます。
そこで彼は自分の愛情の歪みに気づき、再び息子のハンターをジェーンに託して、去って行く。
と、いうようにわたしには見えました。
ジェーンと息子ハンターは4年ぶりにあって、固くハグします。
物語は再びどこかへ行くトラヴィスで終わる。
ジェーンは4年間金額はともかく、毎月ハリーの口座に送金していたけれど、彼女は怪しげな「接客業」でようやく稼いでいたように、あまり生活力があるとは見えない。
先々心配だなあ…
そこでわたしは、堅実な弟夫婦のことを思い出します。
トラヴィスの失踪していた4年という時間、弟との会話で、トラヴィスは「たった4年」といい、弟は(8歳のハリーにとっては)「人生の半分だよ」と言う。彼とハンターの過ごした時間と、彼がハンターを親のように理解していることが伝わってきました。
家庭支援センターの職員ならばどう言うか。
まあそんな作品に描かれていないことは置いといてもいいのですが。
トラヴィスの不器用で歪んだ愛情(その原因は父母にあるらしいこともトラヴィスが語る)、渇望のあまりに放浪し、その末に再会した妻に「独白」しているうちに、それに気がつき、今度は愛情の故に、再び別れる、という旅路の物語と言えるのでしょう。
ナスターシャ・キンスキーの美しさと、子役のハンターの天使のような愛らしさと、所々に登場するジョン・ルーリーのようなヴェンダースっぽい人たちとか、語りたいシーンの多い作品です。