家で映画でも〜「幸福なラザロ」
何とも不思議な映画です。
イタリア映画で、「ラザロ」という名前、しかも「幸福な」という形容動詞がついているのだから、見る前からこれは聖書に出てくるラザロだろうな、と想像はつきます。
新約聖書に登場するラザロといえば、
ヨハネの福音書11章のベタニヤ村、マルタとマリアの兄弟ラザロの二人。
譬え話と書いたけど、わざわざ名前を出したのは、話し手のイエスにとっては既知の人だったからかもしれません。地獄に落ちたかわいそうな金持ちの方は名無しです。
ベタニヤ村のラザロは、イエスに友として愛された姉妹と兄弟で、病気で死んで4日目に(もう臭くなっているという描写もある、完全に死んだということ)、イエスの奇跡によって死から蘇らされた人です。聖書では有名な場面で、レンブラントなど絵画にも多く描かれています。
さて。
この作品のタイトルから想像したのは、そんなところ、作品に関する情報はなしで見ました。
幸福なラザロ
アリーチェ・ロルバケル監督
2018年イタリアの制作
見始めて、しばらく頭の中は「?」マークでいっぱいになる。
これはどこ?
電気ガスなしの貧しい寒村で、たばこの栽培で農奴のように働き続ける村人たち。
夜になると、村の周囲で狼の遠吠えが響く…
いつの時代?
学校もなく子どもたちも働いている、青年ラザロは村人にさらにこき使われている。
彼には親がなく、おばあちゃんだけがいて、ろくに住む場所もないよう。
「フィガロの結婚」の頃かしら?
そうこうするうちに「侯爵夫人」の執事みたいな男が自動車に乗ってやってくるから、そんな昔じゃないのか、じゃ第2次世界大戦前?
そうこうするうちに、侯爵夫人とそのドラ息子がやってきて、彼らが携帯電話を使っているのを見て、ようやく現代の話であるとわかる。
カンヌ国際映画祭グランプリ受賞作「夏をゆく人々」などで世界から注目されるイタリアの女性監督アリーチェ・ロルバケルが、死からよみがえったとされる聖人ラザロと同じ名を持ち、何も望まず、目立たず、シンプルに生きる、無垢な魂を抱いたひとりの青年の姿を描いたドラマ。「夏をゆく人々」に続き、2018年・第71回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、脚本賞を受賞した。20世紀後半、社会と隔絶したイタリア中部の小さな村で、純朴な青年ラザロと村人たちは領主の侯爵夫人から小作制度の廃止も知らされず、昔のままタダ働きをさせられていた。ところが夫人の息子タンクレディが起こした誘拐騒ぎを発端に、夫人の搾取の実態が村人たちに知られることとなる。これをきっかけに村人たちは外の世界へと出て行くのだが、ラザロだけは村に留まり……。
(毎度毎度映画.comより)
村ぐるみ侯爵婦人とやらに騙されるなんて、ありえね〜
と思うのですが、1980年代に実際にあったことらしい。
そりゃテレビもラジオも電話もなく、村に車もないのだから、情報は入って来ないだろうけど…しかも学校もなく、村人はみんな読み書きができないから、新聞も読めない、そもそもないけど。
その中で、足の不自由なおばあちゃんしかいないラザロは、さらに村人に搾取されているのですが、本人は文句も言わず、見たところロクに寝ず、食べず、穏やかな表情で言いつけられるままに仕事をし続けています。
ラザロ役はこれが初主演の無名の俳優だそうですが、大きな澄んだ瞳が印象的で、彼がいてこそこの作品が成り立ったのだと思います。
侯爵夫人のドラ息子タンクレディが、自分が誘拐されるという狂言で母親から金を巻き上げることを思いつき、全く人を疑わないラザロを巻き込み、ラザロの居所である岩山の穴で寝起きします。
その時、多分タンクレディの方は思いつきで「俺たちは兄弟だからね」とラザロに言うのですが、ラザロはその言葉を深く信じます。そしてラザロが狼を追い払うために使う、まるで羊飼いダビデが持っているようなパチンコを「これは、お前の武器だからな、しっかり持っておけよ」みたいなことを言う。
ラザロはタンクレディを本当に兄弟として深く愛したようです。
母親の侯爵夫人にはドラ息子のやることはバレバレで、ラザロをパシリに使った狂言劇には乗らず、放っておきます。
しかし、何日も帰らないタンクレディを心配した、執事の娘が警察に通報…
目を疑うような全時代的農村の有り様が、世間に知られることに。
長年にわたって騙されていた村人は、当局に保護され、街中へ出ていきます。
ところがラザロは、上記の解説では村に留まり、とあるけど、実際には、岩山の穴に帰る途中で、滑落して気を失って…
否、死んだのです。
そこへ、狼がやってきて、彼の匂いを嗅ぐ…
ここがとても象徴的なシーンで、最後のシーンでも繰り返されます。
そして、何年経ったかわからないけど、ラザロは目を覚まし、タンクレディを追ってスタスタと…冬の寒い日、半袖シャツ一枚で、歩いて街へ。
そこで、村人たちと再会。
彼らは、当然ではないかと思うけど、都会生活などうまく行くはずなく、コソ泥や寸借詐欺のようなセコいことをしてやっと生きている。
どうして村に戻らなかったのかな?
ラザロはタンクレディを探して、そして、再開する。
零落して体も壊して、老け込んだタンクレディと。
ラザロは、兄弟タンクレディが落ちぶれているのに心を痛め、何とかしなくちゃ、と思う。
しかし、ラザロの純粋さは、都会では全く通用しません。
彼の純粋さを理解したのは、教会で奏でられていた音楽だけでした。教会のシスターも、ラザロと村人を邪魔者扱いして追い出したけど、その音楽は、教会の窓からラザロを追いかけてきました。
聖書に語られるベタニヤ村のラザロは、2度は蘇りませんでした。
この作品のラザロはどうだったでしょうか?
わたしはまた何年か眠ったラザロが、再び村へ帰ったらいいのにな、と思います。
と、不思議なことが続く映画です。
ロルバケル監督の意図に沿うかはわからないけど、タイトルから想像できるように、カトリシズムの色濃い内容だと感じます。
それも都会の衰えたカトリシズム(作品中で、アポのない来会者を追い出すシスター)ではなく、本来の純粋性を持ったものとしてラザロに具現化されているように思います。
2018年カンヌ映画祭脚本賞とは、映画界で一定の評価があったというのも少し驚きですが、しかし、ラザロの純粋さが都会には全く通じないところに現代社会への風刺を見て、共感した人も少なくなかったのでしょう。
わたしとしては、風刺として見るよりは、寓話性を見る方が好みではあります。
前述にように、ラザロが再び立ち上がって、お話の整合性(そんなものこれに求められているかわからないけど)から言えば、タンクレディをまた助けに行くのでしょうが、それよりは、元の村に帰っていくのが良いと思うのです。
都会ではそんなもの通用しないんだよ、と、これが彼の終焉になるのかもしれませんが、ここまで不思議な映画なのに、それじゃつまんないから。