家で映画でも〜「ゴダールの決別」
「家で映画でも」シリーズ?もこれで最後です。
まだまだ映画館で見るのは心配だから、これからも家で見るだろうと思うけど、今度はどういう括りにしようかしら?
「サッカーの合間に」とか?
実際、イングランドPLもセリエAもJリーグも過密日程なので、見るだけで忙しいのです。
それはともかく。
最後は美しい映画で締めます。
「ゴダールの決別」
ジャン=リュック・ゴダール監督
1993年制作
ジャン・リュック・ゴダールがフランスの大スター、ジェラール・ドパルデューを初めて起用して、創造主(神)と肉体をモチーフに作り上げた作品。監督のゴダールは80年代に入り、再び長編映画の世界に回帰し、近年も「ヌーヴェルヴァーグ」、「ゴダールの新ドイツ零年」などを発表している。本作品では、いつもながら脚本・編集を兼ねている。製作のアラン・サルドは「ゴダールの探偵」などで脚本家としても参加しているフランスを代表する製作者。撮影は近年のゴダール作品のほとんどを担当し、リヴェットの「彼女たちの舞台」などリヴェット作品も多く担当しているカロリーヌ・シャンペティエ。録音は現在のゴダールの映画作りに欠かせないフランソワ・ミュジーが担当。主演は「カミーユ・クローデル」のジェラール・ドパルデュー。共演は彼の妻役に舞台で活躍してきたローランス・マスリア、「伴奏者」のベルナール・ヴェルレーほか。
(movie walker pressより)
DVDの表紙に「ゴダール史上最も難解な作品!」
というようなことが書いてありますが、これはゴダール好きへの煽りで、実際はそんなに難解ではありません。
この前に発表された「ドイツ零年」の方が手強いと思います。
日本人は宗教的とか言われると、腰が引ける人が多くて、あれはなんだろうな〜、毎年お正月に初詣行くだろうし、鳥居の出入りできちんとお辞儀する人も多いのに、あれは宗教ではないのだろうか?単なる習慣なんだろうか?
ま。いいや、人間存在と神なるものとを切り離して考えることはできないと、思います。
このテーマに、ゴダールは、この作品では割と真っ直ぐに取り組んでいます。
アブラハム・クリムト(ベルナール・ヴェルレー)が「ある出来事」の調査にレマン湖のほとりの町にやってくる。彼はシモン・ドナデュー(ジェラール・ドパルデュー)とその妻ラシェル(ローランス・マスリア)の居所を探し、人々に物語を買いに来たと述べる。その頃、ラシェルはモノ牧師(フランソワ・ジェルモン)に5日前、肉体のもろさを知ったと言い、寝た相手が夫か神か分からなかったと訴える。駅ではマックスが神を迎えに来ていた。神はラシェルを探すように命じる…
(同上)
冒頭の詩のような語りが大変印象的です。
そこで先祖から現代に生きる者に至る間に、神と人をつなぐもの、すなわち祈りの言葉が徐々に失われていったことが、寓話のように語られます。
いつものように、映像が素晴らしく美しい。
ゴダールの住むレマン湖の周辺の美しい景色の中に人物をスーラの「グランド・ジャット島の日曜日の午後」のように(あるいはもっと適切な例があるかもしれませんが)、絶妙な位置に人物を配した絵画のように整った映像。
そのレマン湖畔の町にやってきたクリムトという名の男が、この作品を動かしているのですが、当然のようにざっくりしたストーリーしかありません。
ギリシア神話の神ゼウスが人妻と浮気をするエピソードをベースに作られたということで、神がシモンの体に入り、その妻ラシェルと寝る。
ラシェルはそれが夫ではなく夫の姿を借りた神であることを知らされる、お前はわたしの愛人であると。
シモンの姿をした神はラシェルに「不滅の命は欲しくないか」と尋ねるが、ラシェルは首を振り、直後に気を失う。写真はその映像。
そのシーンもたいそう静謐です。
折々にピアノの重層音が雷のように入る以外は、静かな映画です。
神はシモンの体に入っていない時は、機械的な声になり「プライバシー保護のために声を変えています」みたいな感じもして、17年前だとどう感じたかわからないけど、ちょっと違和感を覚えます。
コートと帽子という神を示すものもあり、具象で示されているので、お話としてわかりにくいということはありません。
無論、いつものように中心のストーリーの周囲には複数のエピソードと印象的な言葉が散りばめられてはいますが。
シモンは
最後に「シモン・ドナデュー」とサインをする。Simon Donnadieu、これは、Si m'on donne à Dieu、つまり「もしわが身を神に捧げるなら」を意味する。
ゴダールは、この作品でギリシア神話の神や聖書の神のようなものではなく、自身の神観念を具象化したのだろうと思われます。
ただ、彼の文化的土壌はヨーロッパですから、作品中の神の言葉にもあるように、聖書の三位一体の神のイメージに近いようです。
三位一体と言い出すといっそうややこしくなってしまうけど、聖書的に言えば、現代は聖霊の時代なので、神は目に見えなくても認識できるものです。
ゴダールの神は、さらに人の姿を借りてその存在を示しました。
ラシェルが「なぜわたしに?わたしはそんなに美人でもないのに」というのが妙に真実味があって面白かった。
ラシェルが、夫の頭がおかしくなったとは思わず、神が夫の体に入っていることを疑わなかったのは、聖なるものを感じ取ったからでしょう。
それが、夫との行為でそう感じたというのがこの映画の解釈になるのでしょうか。
彼女の畏れと、充足感とが伝わるように思います。
しかし、真に聖なる存在であるならば、おそらくそれを感知する能力があれば、(そーゆーことをしなくても)その存在を知ることができると思われます。
この作品を見て、ベルイマンの「神の不在3部作」を思い出しました。
ベルイマンも好きな監督です。しばらく見ていないけど、「沈黙」のような作品と見比べてみたいように思います。「沈黙」は相当に辛い作品ですが。
ベルイマンも「フェニーとアレキサンデル」のあと、「わたしは再び神を信じ始めている」と言っていたのを思い出します。
もう一つの見方として、浮気なゼウス神のお話から作られたのだとしたら、あまり固く考えずに、神と人がわちゃわちゃしていた遠い昔を、現代に描いたと見ても悪くはないのかもしれません。
ゴダールの作品としては、映像美は素晴らしいと思うけど、もう少し手強い「ドイツ零年」のほうがわたしは好きです。