こんな時には家で映画でも〜「殺しの烙印」
なんかすごいの見ちゃいました。初見です。
殺しの烙印
鈴木清順監督
1967年制作
出来上がったフィルムを見て、当時の日活の社長が、カンカンに怒り、「訳のわからない映画を作ってもらっては困る」と社員の前で批判して、鈴木清順との専属契約を解除したという、曰く付きの作品。
封切りされた時には、若いファンには熱狂的に支持されたということですが、すぐに打ち切られて、しかも自主上映までも日活に拒否されたとか。
今見ると、そこまで怒る理由がよくわからないのだけど…
主演は宍戸錠、敵役のNO.1の殺し屋が南原宏治、妻?役が小川万里子、敵役で恋人に真理アンヌ。
脚本は大和屋竺という、わたしはよく知らないのだけど、当時の曲者に違いない。
良い子は絶対に見ちゃいけない映画です。
「ツィゴイネルワイゼン」などのその後の鈴木清順を知っている者としては、この作品を見ても、そんなにびっくりはしないのです。
ただ、当時は色々物議を醸したのもわからないではありません。
何しろ、妻らしき女は、全編裸なんですわ。
彼女、宍戸錠扮する花田といつでもする用意があるようで、洋服は必要ないらしいです。
封切り当時は、こういうシーンには、真っ黒なベタが塗ってあったそうな。
そりゃ1967年ではそうでしょう。
今見てもなかなかすごいです。
でもそういう映画というわけではなくて、いわばギャング映画になるのか。
話は「訳のわからん」ことはなく、単純で、ある組織に属する殺し屋が、殺し屋ランキングを争い、殺しを失敗すると、ランクダウンし、殺される。
謎のランキングNO.1に狙われ、最後はボクシング場みたいなところで一騎討ちとなります。
NO.1もちっとも謎でなく、見てるとああこいつね、とすぐわかるのだけど。
花田というのは、そんなにスーパーな殺し屋ではないようで、N0.1の影に怯え、そのプレッシャーに神経もやられる。
しかし最後は窮鼠猫を噛む、という展開に。
女殺し屋の真理アンヌがかなりブキミ。
こちらは洋服も必要だけど、何度かお脱ぎになりました。
話は殺し屋ランキングとか、ちょっとアホらしいくらいのものですが、映像のスタイリッシュなこと、花田という殺し屋の欲情や、焦燥や、真理アンヌや小川万里子の演技(うまいというのではない、怪演)、後年の鈴木清順の美的センスを感じさせるシーンなど、見どころは色々。
鈴木清順の世界に入っていけないと、何やこれ?と、なる映画ではあります。
こんな時には家で映画でも〜ボイス・オブ・ムーン
わたしは「そして船は行く」がフェデリコ・フェリーニの遺作だと思い込んでいたのですが、この作品が最後だったのですね。
ボイス・オブ・ムーン
フェデリコ・フェリーニ監督
1990年制作
イタリアの田舎町を舞台に、月の声を聞こうとする愚か者と周囲の人々が繰り広げるお祭り騒ぎを、空想と現実をないまぜにして描く フェデリコ・フェリーニの「インテルビスタ」に続く監督作品。製作はマリオとヴィットリオのチェッキ・ゴーリ兄弟、脚本は エルマンノ・カヴァッツォーニの「狂人たちの詩」に発想を受けフェリーニ、カヴァッツォーニとトゥリオ・ピネリの共同、撮影はトニーノ・デリ・コリ、音楽はニコラ・ピオヴァーニ。出演はロベルト・ベニーニ、バオロ・ヴィラッジョほか
言わずと知れたフェリーニの作品ですが、これもわたしは未見でした。
それで最後に見た「そして船は行く」が遺作だと思い込んでしまいました。
「そして船は行く」もあまり世評はよろしくなかったのですが、わたしは大好きな作品で、貶す奴がいたら喧嘩しちゃうからね、ってくらいお気に入りなのさ。
そしてこの「ボイス・オブ・ムーン」もいろんなサイトの批評を見るとかなり散々…
確かにもう少し若い頃の作品と比べると、やや冗漫な印象はあります(そこ行くと、「そして船は…」はよく纏まっている。こぢんまりした印象だけど)。しかし、もともとフェリーニの作品、わたしの印象では見ようによっては冗漫な傾向、言葉を変えれば盛り沢山な傾向はあります。
でも、70歳のおじいちゃんが好きなように撮った映画で、結構な作品だと思います。
最初から最後まで何か夢を見ているような感じ。
フェリーニお約束の胸の大きな女、大きな目の下にくまができている細身の美女(美少年の場合もあった)、何か歌い踊りながらの行列、次から次へなんか出てくるステージ(カトリックの僧尼のファッションショーとか)、とても意外な大きな物とかが、この作品にもふんだんに登場して、つい嬉しくなってしまいます。
お祭り騒ぎと、観光客(日本人観光客がなぜか全員レインコートを着て、お決まりのカメラを持っている、今なら中国人観光客だろうな)の喧騒と、それに対して静かな夜と、月の声に耳をすます詩人のサルヴィーニ。
墓場でオーボエで悪魔の曲を吹く男に会うところは、横溝を思い出すけど、そんなおどろおどろしさはありません。やはり何かに囚われた男というエピソードでしょう。
元知事のゴンネッラとサルヴィーニが知り合ってからが面白く、周囲全てが嘘だと思い込んでいる元知事なのだけど、言うことは結構まとも。サルヴィーニが失恋した後、静寂を愛でることを語る二人なのだけど、そういうがそばから、ものすごい大音響のディスコが出現、元知事怒る。しかし、彼の事実上の妻が現れると、ウィンナワルツが流れ、見事なダンスを披露する…
一人になったサルヴィーニに、友人ネストレが、クレーン車の3兄弟が月を誘拐しようとしていると…
訳わからんことになっていますが、訳わからんのは最初からなのです。
それでいいのだ。
もうこの月の誘拐事件で、あかん人はあかんでしょうが、嬉しくなる人もいるわけです、わたしみたいに。
そして冒頭に出てきた、井戸の傍で月の声を聞こうとするサルヴィーニで終わる。
とてもいいシーンです。
ニョッキとか、ミス小麦粉コンテストとか、語りたいエピソードは満載です。
映画を見たなあ、という気分になったので、往年のあれに比べて、とか無粋なことはなしにしたいと思います。
こんな時は家で映画でも〜「その土曜日7時58分」
映画には、後味の悪〜い、見なかったらよかった…と思ってしまうようなものが、たまにあります。
割と最近では、アンドレイ・ズビャギンツェフの「ラブレス」という映画。これはレヴューを書くきも起きず、二度と見たくない作品でした。
そういう感想を持つということは、それは駄作か、というとそうとは限らず、「ラブレス」も思い出したくないけど、良くできた映画だったのだろうと思います。
今回の映画もそういうタイプ。
「その土曜日7時58分」
シドニー・ルメット監督の遺作。
原題は
Before the Devil Knows You're Dead
文字通りだとすると、悪魔が知る前にとっとと天国へ行っちゃえ、みたいな原題から、よくこの邦題を思いついたものです。
でも、「犯行時間」を起点にした構成なので、このタイトルも悪くないと思います。
2007年の制作。
シドニー・ルメットは、2011年に亡くなりました。
映画.comの解説では、
「十二人の怒れる男」「狼たちの午後」の名匠シドニー・ルメットの監督45作目。優雅な暮らしを送る会計士のアンディは、娘の養育費に窮している弟ハンクに、両親が営む宝石店への強盗計画を持ちかけ、2人は計画を実行に移すが……。1つの誤算から家族の抱える闇が浮き彫りになっていくサスペンス・ドラマ。「カポーティ」のフィリップ・シーモア・ホフマンが自らの不正の発覚に怯える兄を、「ガタカ」のイーサン・ホークが甲斐性のない弱気な弟を演じている。
冒頭から、ありゃま良い子は見ちゃいけません、というシーンで始まり、夫婦円満の話かしら、と思ったら、そんなことは金輪際なく、むしろすでに壊れていた夫婦でした。
兄アンディと弟ハンク、アンディの妻ジニー(マリサ・トメイ)、ハンクの元妻、アンディとハンクの父親(アルバート・フィニー)、犯罪映画の体裁をとっていますが、この家族が崩壊していく話でした。
特に兄弟が、自らの所業によるのだけど、ジワジワ追い詰められていく感じが、よく描けていて、非常に不快な圧迫感があります。
「逆わらしべ長者」と呼びたい映画はいくつかあるのですが、これもその一つと言えなくもない。
わたしが見た中での「逆わらしべ長者」映画NO.1は、「フォーリング・ダウン」というマイケル・ダグラス主演の作品です。
これは題名通り、偶発的なことも重なっていて、見事に落っこちていくのですが、アンディとハンク兄弟のそれは、偶然が作用するのは、母親のことだけです。が、この偶然が、一家をめちゃくちゃにしてしまいます。
だからって、計画通りだったらどうだったか、結局ろくなことにならないでしょうけど。
兄アンディの考えた計画通りならば、誰も殺さずに父親の宝石店から大枚とブツを盗んで、金欠の窮地を脱したはずででした。
しかし、まず実行犯であるはずの弟がびびって、そういう強盗向きの知り合いを雇って、代わりに犯行に及ばせたところから、もう計画に狂いが生じます。
しかし邦題にある犯行時間、店にいたのは雇いのおばあさんではなく、母親でした。
この母親がアメリカの母親らしく?果敢に銃で応戦したおかげで、弟ハンクの代わりの強盗は、彼女を撃って致命傷を与えてしまいます。
結局母親は亡くなってしまいますが、父親は息子たちが犯人だとは無論思わず、車で逃げた犯人(ハンク)への復讐を誓います。
兄弟の焦ること…
この高級住宅街に宝石店を構える父親も、盗品を捌いているような古物商と古い知り合いだったことから、以前はヤバい商売をして儲けていたのか、とわかります。
アンディが愚かにも、まだ犯行に及ぶ前に、この古物商にこれからいい商売させるからよろしくな、なんてことを言いに来たことから、父親はこの事件にアンディが絡んでいることを知ります。
母親の葬儀の折に、父親はアンディに「お前に自分の期待を押し付けて、悪かった、悪い父親だった」というような謝罪の言葉を述べるのですが、アンディは父親を本当に許したのか、わかりません。ただ「それでも親父はハンクの方が可愛いんだろう」というのは、本音でしょう。父子の会話らしい会話はこの場面くらいです。
両親に溺愛されたらしい弟ハンクは、この一家で一番情けなく、結果論だとしても、一番悪いヤツでした。
何しろ、兄嫁と毎週木曜日に会って浮気の相手をしていたし、この事件も、考えた大本は兄なので、兄が悪いのだけど、ハンクが事件を必要以上にややこしくしたことも確か。進退極まって、必ず誰かに頼る、時にはその兄嫁に頼ったり、もうどうしようもないヤツ。
しかも、まさに骨肉相食む展開になった中、彼は少なくとも作品中では逃げおおせてしまう。
父親は、結局長男殺しの罪を犯す。
この辺の展開、ふーん、アメリカ映画でもこうなるのか…わたしには予想外の展開…
母親殺しの復讐なのか、自らの手で息子の罪の精算をしたのか、どうなのでしょう。
いずれにしても、やりきれない話でした。
シドニー・ルメットの長い映画生涯の中で、実はそんなに好きな作品がないことに気が付きました…
しかし、「十二人の怒れる男たち」は映画史に残る作品でしょうし、そこから半世紀、人間の所業、社会の歪みや痛みに目を向け続けていたことは、やはりすごい監督だと思います。
こんな時は家で映画でも〜「クロッシング」partⅠ、Ⅱ
クロッシングpartⅠ、Ⅱ
ジョン・ウー監督
2014年に中国で公開された作品です。
cinera.netの記事をコピペします。
『男たちの挽歌』『レッドクリフ』『M:I-2』などの作品で知られるジョン・ウー監督がメガホンを取った同作は、3組の男女の出会いと別れ、愛の物語を、国民党と共産党の対立が激化した1945年の国共内戦を舞台に描いた作品。前後編で構成され、前編は戦争や時代に翻弄されながら愛を貫いた3組の男女を描き、後編では千人近い乗組員や乗客が犠牲になった上海発、台湾行の大型客船沈没事故「太平輪沈没事故」を軸に、客船に乗り合わせた男女の運命が交差していく。原題は『The Crossing』。中国で2014年に公開された作品となる。
3組の男女を演じるキャストには、中国、日本、韓国から俳優陣が集結。台湾国籍の日本軍軍医イェン・ザークン役を金城武、ザークンの幼なじみ・雅子役を長澤まさみ、出征した恋人を探すために従軍看護師に志願するユイ・チェン役をチャン・ツィイー、兵士のトン・ターチン役をトン・ダーウェイ、国民党の将校レイ・イーファン役をホアン・シャオミン、イーファンと運命的な出会いをするチョウ・ユンフェン役をソン・ヘギョが演じる。
ジョン・ウー監督は「中国と台湾両岸の想いを込めた作品を作りたいと思っていた」と同作に込めた思いを語っている。映画『グリーン・デスティニー』の脚本家であるワン・ホエリンの原案をもとに、総製作費76億円をかけて完成させた。
ジョン・ウーの「中国と台湾両岸の思いを込めた作品を作りたい」という意図は、描けていると思います。
ただ、「本省人」と言われる国民政府が敗走して台湾に渡る以前から住んでいた台湾人については、この作品ではその心象にはほとんど触れることはありません。
金城武演じるイェン・ザークンの家族は、本省人だろうと思いますが、ここでは国民政府と共に大陸から入ってきた中国人に対する感情などついては、描かれていません。むしろ、ザークンの弟などは、人民軍に共感して、台湾から本土に渡って行きます。
侯孝賢の「非情城市」で、メジャーな映画で初めて2・28事件が取り上げられ、公にも語られるようになったそうで、台湾においてデリケートな問題であるようです。
この作品は中国で公開されていますから、中国と台湾といっても、人民軍に敗れた日本軍と国民政府軍、という図式になっています。
それでも、こういう作品が中国で公開されるとは、以前なら考えにくいことではないかもしれません。
登場する台湾人も、国民政府の軍人も、日本人に対しても、同じ視線で描かれています。
同じように人を愛し、同じように生きようとし、同じように死んでいく。
映画の印象を一言で言うと、
partⅠは火攻め。
partⅡは水攻め。
前編の戦闘シーンは、さすがジョン・ウーという感じで、目を覆いたくなる惨たらしさ。
後編の「太平輪」沈没シーンは、「タイタニック」より怖いかも、と思う恐ろしさ。
命がいくつあっても足りないような戦禍の中を、ヒロインの一人、チャン・ツィイーは生き抜きます。
何しろチャン・ツィイーとソン・ヘギョがとてもきれい。
ソン・ヘギョの方は両家のお嬢さんから将軍夫人になった人だから、いつもきれいにしているのですが、ツィイーはいわゆる汚れ役で、散々な目に遭う中、文字通り体を張って生き抜きます。それでも、清純な容姿には陰りもなく、きれいでした。
長澤まさみも出ていますが、金城武の記憶の中だけに登場するので、前述の二人に比べると、印象は薄い。儚いけど激しい初恋の乙女、という感じ。
姑の命によりザークンと再婚させられそうになる兄嫁(兄は共産主義者として処刑された)の方が、印象に残ります。
結局通信兵だった男(彼も「太平輪」の甲板で半死半生だったのに、沈没するときには無傷のような頑張りよう)と、無一文のツィイー(オリンピックのトライアスロンに出られそうな体力で泳ぐ)だけが、生きながらえ、通信兵は将軍の命令を最後まで守って、夫人に遺品を届けに行く。
ついでに書くと、将軍の方は、スタイルにこだわる人なのか、前編ではちょっと嫌味でしたが、後編で国民政府の上層部にも見捨てられて、過酷な寒さの中耐えていたのに、ほとんど無駄死にのような気の毒な最期でした。あれじゃ、国民政府は負けるわ…
太平輪沈没事故で死者は1000人以上、生存者は34人(乗船名簿にない人で…タダノリ…救助された人を入れて50人くらいらしい)。
映画によれば、欲の皮の突っ張った商人により過積載となっていたらしく、その張本人も海に沈んでしまいました。チャン・ツィイー演じるユイ・チャンの弱みにつけ込んで、騙して遊んだので、ちょっとイイキミではあります。
というわけで、飽きずに2本、2夜連続で見てしまいました。
こんな時は家で映画でも〜「馬鹿が戦車(タンク)でやって来る」
昨日「西遊記2」を見ちゃったけら、レヴュー書いてないのがまだ8本だわ。
「西遊記2」の方はそんなに書くことないので、スルーでもいいか、誰に頼まれたのでもなし。
ステイホーム中に多少頭も使わなきゃと思って書いているだけだし。
ともかく、今回は
馬鹿が戦車(タンク)でやって来る
山田洋次監督
1964年の作品で、馬鹿シリーズの第3弾だそうですが、わたしはシリーズを見たことはなく、この作品が初見です。
めんどいからMovieWalkerのあらすじそのままコピペします。
ただし、不適切な表現は書き替えました(言葉を変えるだけでナンセンスかもしれないけど、いくら数人しか読まないブログでも、露骨な表現は載せたくないので)。
作品中では、時代柄差別的な言葉が頻出していました。またカッコ内の配役はわたしが入れました。
海釣りに来た中年の男と若い男は、船頭(東野英治郎)から海辺にある“タンク根”のいわれを聞かされた。その昔日永村は変った人間ばかりが住んでいた。この村はずれに貧しい一家が住んでいた。家族は、少年戦車兵あがりで農器具の修理をしているサブ(ハナ肇)と、頭のよわい兵六(犬塚弘)、それに耳の遠い母親とみ(飯田蝶子)の三人暮しだ。この“汚れの一家々”といわれているサブたちは村中からのけものにされていた。村には、業つくばりの長者仁右衛門(花澤徳衛)をはじめ、村会議員の市之進(菅井一郎)、セックスに明けくれる赤八(田武謙三)、たね(小桜京子)の夫婦。それに最近村に赴任したばかりの百田巡査(穂積隆信)などだ。なかでも仁右衛門とサブは、寄るとさわると喧嘩ばかりしていた。というのも、戦後農地解放で小作人のサブに分けてやった農地を、欲のつっぱった仁右衛門が取返そうとしているからだ。だが仁右衛門の娘紀子(岩下志麻)だけはサブ一家の味方だった。紀子は長い間病床にあったが、秋祭りが近づくころには、若い医者新吾の看病で起きあがれるようになった。やがて秋祭り。紀子は二年ぶりで村を歩いた。そんな紀子の姿を何よりも喜んだのはサブであった。紀子に誘われて全快祝いにかけつけたサブだったが、仁右衛門はにべなくサブを追い出した。腹のおさまらないサブは村中を暴れまわり、警察送りとなった。その弱みにつけこんだ市之進は、親切めかしにとみに金を貸しつけサブの土地を抵当としてまきあげてしまった。それから数日サブの家から突然旧陸軍のタンクがとび出し、仁右衛門、市之進をはじめとして村中を踏みつぶしていった。が、その時兵六が火の見櫓で鳥の真似をして、櫓から落ちて死んだ。暴れまわったサブは、兵六の死体をタンクに乗せると、いずこともなく去っていったというのだ。--船頭の話はここで終った。
というお話です。
「こんな時は家で」シリーズで、今のところ一番気に入らなかった映画でした。
山田洋次って、寅さんシリーズも含めて、あまり好きではないのです。
じゃ何で見たか、ってたまには毛色の違うのもいいかなと思ったのと、寅さんに至る山田洋次の作品でどんなのかと。
最後にサブがそれまでの村人と特に有力者の仕打ちに怒りまくって、タンクで暴れ回るのだけど、それもあまり徹底していなくて、爽快感はない。
山田洋次のお馬鹿さん一家を見る視線が、気になる。
何を描こうとしているのか、お馬鹿一家へのシンパシーも伝わらないし、「昔話」のような仕立てにしているのもよくわからない。
知的障がいのある弟も、思った通りの結末で、何だか救いがないけど、紀子役の岩下志麻が「六ちゃんは鳥になったのよ」というのは、まあ真っ当な見方かもしれないけど、そういう六ちゃんのようなキャラクターを登場させる必然性はあったのだろうか。
村人でまともなのは岩下志麻演じる紀子くらい、彼女こそ寅さんシリーズのマドンナに通じるキャラクターではありました。
紀子は、仁右衛門家での自分の快癒祝いに、考えもなしに無邪気にサブを呼んで、張り切っておしゃれして行ったサブが村人から散々に愚弄され、ひどく傷けることになります。
そういう無邪気な無神経さ、寅さんのマドンナにもよくあるでしょ。
そうでないのはリリーくらいで、だからシリーズでも良作になったのではないかと。
そうか、村人全体が因循姑息な連中なので、それへの、そういう日本の古い体質への風刺というのが当たっているのかもしれません。
ともあれ、あたしゃ山田洋次は好きではない、ということを再確認した映画でした。
密にならない散歩道に咲く密な花々。
毎日お籠りでは、感染は避けられていいけど、心身の健康にはあまりよろしくないので、散歩には出掛けるようにしています。
ここが東京都ながら田舎のいいところ。
散歩の間、細い道でたまに人とすれ違う時だけは、ソーシャルディスタンスを取れないのですが、大体人出はちらほら、というところを歩いています。
いつもの農林総合研究センター周辺もそんな感じ。
もう初夏の花が咲いていて、ウツギとかコデマリとかなぜか小さな花がぎっしり密に咲く花木が多い。
まずは、農林試験場のトチノキ。
これ、トチノキよね?
ワタクシ、寡聞にしてトチノキと、マロニエって同じ種類と、今さっき知ったのです。
セイヨウトチノキというのがマロニエなんですってね〜知らなんだ〜
で、こっちがどっちかはわかりませんが、写真を見るとトチノキのようです。
しかし「マロニエの花咲くパリ」じゃなくて「トチノキの花咲くパリ」というと、急に田舎っぽくなるような…
飛行機雲も撮れた〜
ウツギは花がびっしりついて、密。
これもすごい密。
しかし、オオデマリなのか?アジサイみたいな咲き方なんですけど。紫陽花には早すぎだけど。
カラタネオガタマはバナナみたいな香り、右の花は柑橘系のいい香りがします。
最後に満開のヒメウツギ。
花を見て、写真を撮るのは気分はいいのだけど、あまり運動にはならないので、センターを出ると、とっとこ速足で残堀川周辺を歩きます。
だいたい8000歩から1万歩になります。
ロックダウンになるとそれもできないらしいけど、多分東京はそうはならないでしょう。
こんな時には家で映画でも〜「アランフェスの麗しき日々」
これは恵比寿ガーデンシネマで見ました。
夫が見ていなかったので、Amazon primeで。
アランフェスの麗しき日々
ヴィム・ヴェンダース監督
2016年制作
filmarksの記事を借りると、
100%思いのままに撮った生涯で初めての映画だ―ーヴィム・ヴェンダース
ルー・リードの名曲『パーフェクト・デイ』とともに映し出される無人のパリ やがてカメラは、柔らかい夏の風が吹く木陰のテラスへ… 巨匠ヴィム・ヴェンダースが、盟友ペーター・ハントケの戯曲を映画化、『ベルリン・天使の詩』以来となる二人の5本目のコラボレーション。ヴェンダース最新作にして初のフランス語作品。主演は、『ヒポクラテス』で、セザール賞助演男優賞を受賞したレダ・カテブと、ヴェンダース映画は『愛のめぐりあい』に次いで2本目となるソフィー・セミン。
確かに「ベルリン天使の詩」あたりでご大家主義みたいな批判を浴びた頃からしても、既に老境にある高名な監督が、好きなように撮った作品であると感じます。
ヴェンダース好きなこともあり、わたしは初見から楽しく見たのですが、いくつかのサイトに投稿された感想を見ると、何だか散々な評価に…
そうですかねえ。
冒頭の美しさ、ラストシーンの美しさはさすが。
まず作家の手により、時代物のジュークボックスが動き出し、ルー・リードの「パーフェクト・デイ」が流れる。
作家はデスクのタイプライターの前に座って、少し憂鬱な感じの視線を向けると、流れるようなパスワーク、じゃなかった、カメラワークで庭にいる二人の男女が映し出される。
彼に促され彼女が語り出す。
ペーター・ハントケの原作は読んでいないのですが、二人のセリフ、それぞれモノローグのような語りは、おそらく原作が生かされているでしょう。
初めのうちはほとんど動きがなく、それは、二人の間で…つまり作者が作った…ルールがあり、話に動作を入れない、はい、いいえだけではダメで何か話をつなげる…などがあるから。
後半男が語り出すと少し動きが加わるのですが、わたしには前半の女の話の方が印象に残りました。
あ、野菜の話は面白かった…
でも、その話をここに書いても無意味。
老境の作者が好きなように作った映画としては、ゴダールの「JLG自画像」もそうだったと思います。
こちらは題名通りで、内容はかなり違いますが。
どちらもたいそう美しい映像だったことは同じ。
2度目に見て、二人の語りは最初に持った印象と変わらなかったけど、作家がジュークボックスでかける音楽、そして途中に登場して作家のうちでピアノを弾きながら歌うニック・ケイブ、その音楽の美しさがより強く感じられました。
いわば作中の男女二人は作られた言葉を語っていて、それはそれで面白いのだけど、音楽の言葉はもっと血肉を伴った鮮やかさがあるような…
最後に、映像と音楽は、セザンヌのおそらく「サント・ヴィクトワール山」の絵に収斂されていくのも印象に残るシーンです。
そういうわけで、ヴァンダースなどはとても安心して見られます。