ヘンデル「メサイア」のコンサート風景
著作権の問題があるかもしれないので、写真を小さくしました。
いつもにも増してメンドクサイことを書いてますので、皆様どうぞスルーしてくだされ。
今年は冬にしては暖かいし、気分は落ち込み気味だし、あれこれ忙しいし、世間ではクリスマス気分が盛り上がっているのかもしれないでれど、あまり浮き立つような気持ちにはなれません。
それでも毎年聴きに行っているコンサートの日がやってきました。
友達が合唱団に参加しているJVCのチャリティーコンサート。
JVCについては
「ハレルヤコーラス」といえば、知っている人も多いのでは。
改めて全曲を聴くと、なかなかに良いものです。
もし聖書を読もうと思ったけど、やたらに長いし、途中わけわかんない人名が羅列されていて
めげた~という人がいたら、この曲を通して聴けば一応新約聖書全体を読んだことになります。
ボランティア団体のコンサートという性格のためか、聴衆の半分近くは合唱団員の身内とか友達とかのようで、普段はあまりこういう音楽には接していないような人も見受けられます。
皆さん非常に真面目に、テキストと首っ引き。当然ながら客席のライトは落ちているし、テキストの文字は小さい・・・「メサイア」の場合は英語だからまだ良いけど、バッハの「クリスマスオラトリオ」なとラテン語、目を皿のようにして必死で歌を文字で追いかけることになります。
会場にテキストのページをめくる音がささやかですが、響く。2つ隣の席の中年男性は、老眼鏡をかけては文字を追い、外しては舞台を見るを繰り返して大忙しでした。
老眼鏡を外す度に律儀にたたんでパチンパチンと音がするのが、うっすらと苛立たしい。
しかも前に乗り出して舞台にいる身内を捜すのが、たいそう迷惑なのです。
わたしには迷惑ではないけど、後ろの席の人が見えなくなっているはず。
こういう場合、わたしが後ろの席だったら注意するんだけど・・・
オジサンがちょっと気になりながらの「メサイア」鑑賞でした。
全曲は3部構成になっていて、例の「ハレルヤ」は第2部の最後に入っています。
最後に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。・・・わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」というマタイの福音書11章にあるイエスのことばで1部は終わります。
第2部はイエスがこの世に生まれた目的とそのために彼が帯びた性格が歌われます。
すべての人の痛みと苦しみを罪を背負って死にゆくイエスの姿が描かれます。
・・・「そんなやつおらんやろ」と言わないように。そういうことになっているのです。
このあたりのコーラスとアリアは好きです。
「生き返る?そんなやつおらんやろ」と言わないように。科学でも文学でもなく、これはいわゆる信仰ですから。
で、死にうち勝ったイエスを褒め称える「ハレルヤ」コーラスが高らかに始まる。
ラッパが入ります。
この歌詞は聖書の最後の書、「ヨハネの黙示録」からとられているので、ここで終わっても良いと思うのですが・・・
第3部があるのです。
「ハレルヤ」が終わると会場拍手万雷。
なんとなくもう終わったと思ったムキもあるような・・・前の席のご夫婦は「え!?まだあるの?」「終わりじゃないんだ」と言っていました。
会場どことなく気の抜けた感じで、第3部へ。
後半立ち上がりの失点に気をつけよう・・・と、妙なことを思ってしまう。
しかし、40曲目となるアリアはとても良いのです。
わたしはシロウトなのでいい加減なことを書いていますが、一応新旧聖書の順序により、預言、福音(嬉しい知らせ)、預言成就という形になっているようです。
「コリント人への手紙」は福音を裏付ける理論にもなっています。
このあたりはトランペット・・・死者はラッパの音とともに復活すると預言されているので、ラッパは必須アイテムです・・・と、ティンパニーが入って、とても賑々しい。
合唱団も最後の力を振り絞って?歌い終わり。
で、会場拍手喝采。
はいいのだけど、クラシックのコンサートで終わったとたん拍手するヒト、キライ。
いかにも待ち構えているような拍手はいかがなものか。
余韻ってもんがあるでしょうが。
音は消えたようでもしばらく漂っているものではないかと思います。
指揮者が手を下ろして、一呼吸するくらいまでは待っていてもいいのではないかしら。
かくいうわたしは、クラシックに限らずコンサートに年に何回も行くわけではありません。
知識もありません。というか非常に偏っている・・・
むしろ音痴で、ほとんどの超有名クラシック曲もしりません。
あまりエラソーなことは言えないのですが、ここはお気楽に世迷い言を言える場所としてお許し下され。